2024年06月23日

「もし沖縄戦のころに生きていたら」

 本日、6月23日は沖縄戦の慰霊の日である。
 朝のNHK「おはよう日本」で、沖縄戦を学び 考え つかみ取る教育現場での模索「もし沖縄戦のころに生きていたら」を放送していた。
 NHKの「マイあさラジオ」では、著者からの手紙で、ジャーナリスト浜田哲二、浜田律子『ずっと、帰りを待っていました』を取り上げていた。
 沖縄戦を戦い、部下の多くが犠牲となったにもかかわらず、自らは「おめおめと生き残った」と自責の念にかられる隊長から遺族からの手紙を託され、遺族の許に届けてほしいと託されたことを綴った著作についてキャスターが聞いていた。

 NHKは自らの役割をしっかり果たしている。
 沖縄戦79年、平和を見つめ直すということで、南城市にある馬天小学校の5年生のクラスでは、沖縄戦をテーマに従来とは異なる形の平和学習が行われている。取材に訪れた日は、アメリカ軍から食べ物をもらったという証言について、先生と子どもたちの間で意見が飛び交っていた。

 授業の特徴は、もし自分が沖縄戦のころに生きていたらどのような行動をとるのか、主体的に考えてもらうことだ。
 
 「どんなに、この人の体験談は貴重だと言って子どもたちのために呼んだとしても、一部の子はなかなか聞けないとか、話が心に残らないということがあって、やっているうちにどんどんそういうのが大きくなっていった。だんだん遠い世代になってきたんですよね、子どもたちが。教えるとか伝えるとかって、言うほど簡単じゃない。」とは米須清貴教諭の思いである。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国を周っている途中、2020年からコロナ禍で中断を余儀なくされ、その間、加齢で心身ともに急激な衰えがあった。
 21日に、『骨を掘る男』を観たことで、気持ちがいくらか前向きになりつつある。ガマフヤー具志堅隆松さんの奮闘ぶりを描いたドキュメンタリー映画で、思い出したのは、自分も一度遺骨収集をしてみたいと具志堅さんに相談したら、時期としては1,2月が適期だからということと、声をかけてもらえれば、力になって頂けるという返事は頂戴した。
 その後、心身の衰えで実践することが難しくなっているが、想像力を働かせることはできる。

 米須清貴教諭が子どもたちの想像力を磨く教育をしていた南城市といえば、琉球王国の聖地斎場御嶽(セーファウタキ)があるところではないか。
 先生の名前が米須で、米須といえば、魂魄の塔がある糸満市米須と同じで、沖縄戦の激戦地米須地域にある鉱山の遺骨が収集されていない土を辺野古の新基地建設資材として埋め立てに使おうとしていることに具志堅さんが反対していたことにつながっている。

 米須教諭から、米軍への投降について問われた子どもたちが、自分だったらどうするか各自が意見を発表していた内容は興味深かった。
 ガマ(自然壕)から出て、米軍に投降しようとして、県民が日本軍に撃たれたことを知っていた子どもがいた。
 激戦地沖縄では心ある教員が平和を見直すために、大事な教育を行っていることに心を動かされた。

 戦争が始まるときも、少しずつ、少しずつ世の中が変わっていくことに気づいたら、声を上げて反対していくことの重要性を子どもたちに教えていることは素晴らしいことだ。

 何も言わないといつの間にかまた、戦争に巻き込まれてしまうからだ。
 辺野古の新基地建設埋め立てに米須の鉱山などの土を使うことは遺骨を侮辱することだから、絶対やってはいけない。
 辺野古の新基地建設に反対するだけでなく、戦没者の遺骨を侮辱する自民党、公明党などの議員に天罰が下ることを祈っている。
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