太平洋戦争後、旧ソ連によってシベリアに抑留され、21歳で死亡した東脊振村(現佐賀県吉野ヶ里町)出身の旧陸軍伍長、西村 寿弥男さんの遺骨が3日、吉野ヶ里町に住むおいの正紘さん(83)に引き渡された。正紘さんは「ずっと待っていた。『お帰りなさい』と声をかけたい」と、時折声を詰まらせながら約80年ぶりの“帰郷”を喜んだ。と6月13日の読売(森永健太記者)が伝えている。
1944年に20歳で出征し、歩兵第267連隊などに所属。終戦後、シベリアに抑留され、45年12月に戦病死した。
今回届けられた遺骨は、厚生労働省が2002年7〜8月にロシア・イルクーツク州の「第7収容所第1小病院」埋葬地から収容した342柱のうちの1柱。厚労省は希望する遺族を対象にDNA鑑定を行って身元の特定を進めており、鑑定の結果、今年4月に西村さんのものと判明した。
「我が家へ生きて帰りたかったんだと思う。冬場は寒く、食べるものも満足になかっただろう。戦争がもたらすものは悲劇だ」。正紘さんは遺骨を前にそう語った。
シベリア抑留者の甥である西村正紘さんの名前が戦時中生まれだとすぐにわかるのは当時「八紘一宇」などとこの熟語が使われていた。世界を一つの家のようにする、荒っぽくいえば、帝国主義日本がその頂点に立つとでもいえばわかりやすいかもしれない。
職場の上司が1940(昭和15)年生まれで紘の字を使っていたが、「八紘一宇」なんて知らなかったからつくりの字を広いと書いて注意されたことを思い出した。
今朝のNHKのニュースでもシベリア抑留者の遺骨が80年ぶりに郷里佐賀に戻ったことを伝えていた。
遺骨収集といえば、15日から東京は東中野のポレポレ東中野で沖縄のガマ(壕)などで遺骨収集を続けてきたガマフヤーの具志堅隆松さんのことを映画化した『骨を掘る男』を上映している。
描かれたご本人が本日の上映時間後にトークショーに出られると映画館の㏋にあったが、都合がつかないので、今週中には何とか映画だけでも観に行くつもりである。
戦後米軍統治が長かった沖縄では、激戦地であったにもかかわらず、遺骨が収集されないままになっていることで知られている。
骨を掘る男は戦没、死没した人だけでなく、遺族にとっても大変頼もしい人で感謝あるのみであろう。
さて、シベリア抑留者のことを日本政府、保守系だとされている勢力がしっかり後世に伝えようとしているとはとても思えない。
遺骨収集が困難であるのは、ソ連が敵国であり、その後継がロシアになって、ウクライナに侵略戦争を仕掛けたため、日本はウクライナ支援の側に立っていることから、さらに困難になってしまった。
それでも、積み重ねで細々とではあるが、抑留死亡者の名前と遺骨の調査は継続されてきたことから、今回のような遺族を安心させられるようなことにもつながっている。
1945年8月15日、日本が降伏してから79年経つが、シベリア抑留は戦争が終わってからのことだから、抑留された人たちも信じられない暴挙だった。
軍隊は武装しているから、民間人は軍人には何も言えないのと同じで、戦争に敗れたからと簡単に武装解除、武装放棄してしまったことで、ソ連軍の前に奴隷化されてしまったことを肝に命じたい。
千島列島の占守島で戦った守備隊戦車11聯隊は8月18日から21日に自衛のために戦い、缶詰工場の女工たちをソ連兵の性暴力から守ったことで知られる。
戦争に敗れたとはいうものの、武装を解除しなければ、簡単にシベリアには連行できないはずだ。
ソ連がシベリア抑留のようなことをやることはよく考えればわかりそうなものである。
もともと、一番信用できない国だったはずだ。
戦争に敗れるということがどういうことかわかっていなかったのではないか。軍人たちは。
戦争はウクライナの自衛戦争は別にして、やってはいけないことだと肝に命じるべきだ。
米軍の戦争に巻き込まれてはならない。
2024年06月18日
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