2024年06月11日

日立空襲から79年 慰霊祭

 太平洋戦争末期の日立空襲から79年を迎えた10日、多くの犠牲者を出した茨城県日立市の日立製作所日立事業所で、戦災慰霊行事が行われた。幹部社員は慰霊碑の前で手を合わせ、空襲が始まった時刻と同じ午前8時51分に社員約2千人が黙とうをささげた。とNHKと6月11日の茨城新聞が伝えている。

 軍需工場となった同市幸町の同社海岸工場には1945年6月10日朝、100機を超える米軍の爆撃機B29が1トン爆弾を806発投下した。工場の9割が破壊され、従業員634人が亡くなった。

 同社はこの日を「戦災の日」と定め、毎年慰霊行事を開催。10日は稲田康徳執行役常務らが、成沢霊園(同市西成沢町)にある慰霊碑「陶輪碑」や、地盤が崩れ多くの従業員が生き埋めになった同工場内の防空壕跡で線香を上げ、犠牲者を追悼した。

 同日は防空壕があった台地にある戦災資料館を社員や一般市民にも開放。


 旧日本軍の軍人たちが始めたアジア太平洋戦争であるが、軍人たちは自分たちだけ武器を手にしているので、結果的に誰も逆らえないことをよいことに随分身勝手な振る舞いだった。

 1941年12月8日に米国のハワイ真珠湾を攻撃して始まった日米戦争は、明けて1942年6月4日から7日のミッドウエー海戦での敗北で、一気に旗色が悪くなり、軍国主義教育で降伏することを許されなかった戦場では玉砕という呼び名で美化された最後まで戦うことを義務づけられた兵士たちの頑張りで彼らの命と引き換えに持ちこたえつつも、次第に戦況は劣勢となっていく。
 1944年6月15日から7月9日にかけてのサイパン島の戦いでは、玉砕に追い込まれ、バンザイクリフから飛び降りる島民の姿が撮影されている。
 サイパンが陥落し、いよいよ本土への空襲が激しさを増していき、明けて1945年3月10日には東京大空襲でT0万人もの人が死に、首都東京は焦土と化した。
 それでも、戦争に敗れると勝者米国から戦争責任を問われることを怖れた軍人たちは降伏せず、沖縄を本土の防波堤にし、本土攻撃への時間稼ぎをしたから、4月1日に上陸してきた米軍によって県民など20万人もの人が殺され6月23日、守備隊は司令官が自決し、沖縄戦は終結した。
 それでも、軍人たちが戦争を続けたため、8月6日と9日、ヒロシマとナガサキに原爆が投下され、ようやく8月15日、玉音放送で降伏が告げられた。

 こうして戦争の始まりから降伏までを振り返ると、冷静に考えれば、初めから米国とは国力の差で戦争をしても勝てるわけがなかったことがわかる。
 当時であったとしても、少しばかり勉強していればその程度のことはわかったはずだが、2022年2月24日、ウクライナに侵略した21世紀のヒトラ+スターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンにロシアの人たちが逆らえないのと同じように、戦争に反対することなどできなかった。
 当時の、特高警察は治安維持法で捕まえ、取り調べで拷問し、捕まった被疑者は容赦なく殺害されているからだ。

 1945年6月10日、7月19日、7月26日と三度米軍のボーイングB29の空爆、7月17日は沖縄同様鉄の暴風と呼ばれる艦砲射撃を受けた日立製作所は軍需工場だから当然のことのように米軍には狙われたのである。

 敗戦後、79年経って犠牲者の慰霊をするだけではなく、なぜ、戦争を始めてしまったのか、なぜ、もっと早く降参しなかったのか。など真剣に考える必要がある。

 犠牲者を供養することは大事だが、戦争を二度とやらない、巻き込まれないことがもっと重要である。
 さもなくば、犠牲者が浮かばれない。
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