2024年04月25日

92歳で初めて被爆体験を語る 生き残った後ろめたさ

 広島の原爆投下で被爆した才木幹夫さん(92)は、ロシアによるウクライナ侵攻などを受けて、4月から新たに広島市の「被爆体験証言者」となり、24日初めて、原爆資料館で核兵器の悲惨さを訴えた。と4月24日のNHKが伝えている。
 旧制広島第一中学校の2年生の時、爆心地から2.2キロの自宅で被爆した才木さん。
 同じ学校に通う多くの生徒が亡くなる中で生き残ったことに後ろめたさを感じ、長年、原爆についてほとんど語ってこなかった。

 24日は原爆資料館で鳥取県から修学旅行で訪れた、小学6年生43人を前に初めて証言し、被爆直後の広島の光景について「腕の皮膚が垂れ下がり目を開くこともできない人たちが水を求めて歩いていた」と語った。 
 終戦後も突然、髪の毛が抜け落ちる人や白血病などで亡くなる人が多くいたと話したうえで「まだまだ世界の人々は核の本当の恐ろしさを実感していません。私たちは本気になって核の恐ろしさを知っていかなくてはならない」と訴えた。


 井上ひさし『父と暮らせば』が黒木和雄監督、宮沢りえが主演して映画化された作品を観たとき、被爆して生き残った娘が生き残ったことに後ろめたさを抱きながら生きていることを知った。
 原爆投下から3年後のヒロシマを舞台に生き残った娘と幽霊となった父親との交流を描いた作品である。
 生き残った後ろめたさから、自分だけ幸せになっていいものか迷う娘は結婚話を進めることに躊躇するのだ。

 被爆しても、92歳という長命と言ってもいい年齢まで生きられた才木さんが、この年齢になるまで、被爆体験を語れなかったのは生き残った後ろめたさゆえのことだという。
 生き残った人は亡くなった人のことをいつも考えながら生きてきたとも話されていた才木さん。

 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、ヒロシマの平和記念公園内にある原爆供養塔に2回お参りしている。
 1回目のとき、遠足か散歩の途中だったのだろうか、保育士か先生に引率された保育園児か幼稚園児かが慰霊のために「手向」を吹くのを座って聴いてくれたことが忘れられない。
 あのとき、子どもたちを引率してきてくれたことに敬意を表するとともに感謝申し上げる。

 自分が語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚をしてきたのは、死者のことを忘れていない人間がいることを知ってもらうためである。
 後ろめたさを感じる感性の持ち主を自分は尊敬する。
 被爆して逝った人たちに限らないが、死者は皆死にたくなかったはずだ。
 だから、生き残った人、今を生きる人は死者のことを忘れてはいけないのだ。
 公園内では原爆供養塔にお参りする人はほとんどいなくて、皆、TVで放送する平和の灯の所でお参りする。

 92歳になってようやく被爆体験を語る気持ちになった契機はやはり、2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵略だった。

 21世紀のヒトラー+スターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンさえこの世からいなくなれば戦争は終わらせられるはずだ。
 口に出せることではないが、たった一人の独裁者の野望のために、多くのウクライナの人ばかりでなく、ロシアの人も兵士にされ、亡くなっている。

 しかも、独裁者は核兵器を使うぞと脅しているだけでなく、ウクライナの原発まで攻撃している。

 独裁者に核兵器を使わせてはならない。
 ために、被爆地ヒロシマ、ナガサキの人、そして、日本人は声を上げる必要がある。
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