2024年04月15日

硫黄島からのはがき 父の形見

 先の大戦において、硫黄島では、2万名余りの尊い命が失われた。 
 東京都では、硫黄島で戦没された方々を慰霊し、平和を願う都民の強い決意を表すために、毎年、関係御遺族とともに現地にて追悼式を挙行している。終戦後78年となる2023年度は、当初、民間航空機を利用し、東京都小笠原村硫黄島「鎮魂の丘」慰霊碑前で追悼式を実施する予定だったが、硫黄島近海の噴火の影響を鑑み、会場を都民ホールに変更して、41回目の追悼式を2024年1月18日に実施したことを東京都が伝えている。

 3月28日の読売によれば、読者からの投書「気流」に硫黄島からのはがき、として「家族へ『元気』父の形見」という見出しで千葉県は八千代市の平尾卓也さん(85)から寄せられた父から届き大事にしていたはがきのことが紹介されてたので、語り継ぐ戦争の立場から取り上げておく。

 九州帝国大学農学部の助教授で林業の研究者だった父経信さん。学術研究で将来を嘱望されていた。44年4月、臨時召集され、5歳で長男の卓也さんと1歳の長女に身重の妻を残し出征した。
 部隊は激戦の末、壊滅、経信さんも37歳で戦死。遺骨はみつかっていない。
 平尾さんきょうだいは2019年、3人で硫黄島を訪れた。
 父からの手紙は「子どもたちを案ずる言葉のほかには元気ばかり。本当の気持ちは軍事郵便だから書けなかったのだろう」と亡き父のことを思いやる。


 クリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』を観て、日本兵はよく頑張ったなと感心しきりだったが、その後、元の職場の上司の父親が硫黄島で戦死していることを知った。
 父親が戦死しているわけだから、元上司は1945年より前に生まれたとして現在、80歳過ぎたくらいか。
 穏やかな人物で悪い印象など全くなかったが、退職後、気になって手紙を書いたところ、返信が届いたので大事に持っている。
 硫黄島は、旧島民も帰島できず、自衛隊と民間工事業者しかいないとのこと。当然、許可を受けた人しか行かれない。
 飲料水がなく、雨水をろ過して飲むほど水が貴重である。
 火山島で生きるだけで大変過酷な厳しさがあり、地獄のような中で戦争をしていたのだろうと手紙に書いてあった。
 遺族として、戦争の犠牲は一代では終わらない。これからは決して戦争をしない時代にしていかなければならないとも記してあった。
 上司は息子を連れて硫黄島の慰霊祭に出ているとも。
 私に届いたのは硫黄島からの手紙ではなかったが、硫黄島で父親が戦死した息子からの手紙だから、戦争に対する思いなど伝わるものは貴重である。

 メールやラインなど全盛であるが、遺されるということでは手紙には遠く及ばない。
 手紙はとっておけるから、読み返すという至福の時間を持てるが、メールは便利ではあるが、推敲する人は少ない分、心を揺さぶられるようなことはあまりない。

 はがきは手紙同様、後で楽しめるということではがきも悪くない。
 遺書みたいに自分が旅立ってから、届くような手紙を連れ合いに書いておきたいと願っているが、まだ書いてはいない。
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