2024年03月12日

「さよなら青函連絡船」

 NHK特集「さよなら青函連絡船」を視聴することができたので書いておく。
 
 「本州側の終着駅・青森と北海道の玄関口・函館を結び、津軽海峡を往復し続けた青函連絡船は、80年の間に70万回の航海を数え、1億6千万人の乗客を運んだ。廃止間近の連絡船に乗り、戦争で空襲にあって沈んだ連絡船の乗客の遺族、思い出の航海を振り返る女性、連絡船の元機関士、青函連絡船の終わりと自身の定年を重ね合わせる人など、多くの人生の出会いが刻み込まれた連絡船に別れを告げに来た人々の思いをつづる。」と㏋にある。


 愚かな軍人が真珠湾攻撃をしたために米国からの復讐でどれほど多くの市民が戦争で殺され、傷つけられたことか。
 昨日、3月10日の東京大空襲、大空爆のことを語り継いでいる人を紹介したら、再放送らしいが懐かしや青函連絡船が廃止になった1988年3月13日間近に連絡船に乗った人たちの人生を紹介していて興味深かった。
 というのも、戦時中、空襲、空爆で沈められた連絡船の乗客の遺族が乗船していたから、語り継ぐ戦争の立場から、2010年6月に35年ぶりに青森に行き、青函連絡船戦災の碑にお参りしているからだ。このときの顛末は当時の紀行文に書いたから省く。

 学生時代は自由になるカネなどなかったが、社会人になると少しは自由になったので、社会人2年目の夏、北海道に行こうと思い立ち、上野発の夜行列車に乗った。寝台車に乗る余裕はなかったので、4人がけのボックス席だった。
 翌朝、終着駅青森に到着。10時頃発の青函連絡船に乗り、汗を流したいと思っていたら、船内でシャワールームをみつけた。有料だったと記憶するがさっぱりしたことを思い出す。
 連絡船は大きかったが、陸奥湾を出ると津軽海峡は結構波があり揺れた。揺られることおよそ4時間、14時頃函館に着いたのである。
 たった一度の出合いであった。
 お参りするために訪れた青森で、一度も乗ったことがないという連れ合いが連絡船に乗ってみたそうだったから、青森港に係留されているメモリアルシップ八甲田丸に乗船し見学したが、山下公園にある氷川丸ではないが結構楽しそうだった。

 青函連絡船といえば、「津軽海峡冬景色」が流行ってからはメロディとともに歌詞を口ずさんでいる自分がいるが、戦時中の空襲、空爆で沈められただけでなく、1954(昭和29)年9月26日、台風で洞爺丸が沈没した事件が起きている。
 この事件を参考に水上勉『飢餓海峡』(新潮文庫)が書かれたと耳にするが、映画化され、北海道で事件を起こし、洞爺丸に乗船していた犬飼が下北半島に辿り着き、娼婦として働いていた杉戸八重と出会う。八重に大金を渡したことから、八重は今の境遇を抜け出す恩人だと犬蟹のことを律儀にも忘れない。作中の架空の女性ではあるが自分にとって左幸子演じる杉戸八重はまるで実在するかのような生涯忘れがたき女性となった。
 薄倖な娼婦や女郎と呼ばれた女性の供養の旅をしていることにつながっているような気がするのだ。

 青函連絡船が津軽海峡の海底を掘ってトンネルを作り、鉄道を通した工事は近代の土木工事の粋であるかもしれないが、だからと言って、連絡船を廃止にしなくともメモリアルで1日に1回くらい往復してもいいのではないか。

 トンネルは戦争になるとシェルターとして使えるかもしれないが、戦争だけはしてはいけない。
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