帰省先の石川県珠洲市で能登半島地震の土砂崩れに遭い、妻と子ども3人を失った男性が14日、告別式で喪主を務めた。地震発生から2週間。悲しみをこらえながら、「いつまでも一緒にいたかった」と気丈に語った。と1月15日の読売(小峰翔記者)が「『永遠の宝物』忘れない」という見出しで伝えている。
石川県警の警察官だった男性(42)は金沢市から妻の実家がある珠洲市に年末から家族で帰省していた。
いつも通りの元日ではあったが、突然の揺れに、男性は野外に出て、安全を確認した。その直後のことだった。
2度目の揺れに襲われたのである。目の前で裏山の土砂が崩れ、家を押し流した。
夫婦ともに珠洲市の出身。土砂崩れでは他の親族も犠牲になった。「自分だけ生き残った罪悪感がある」「家族が頑張って生きた証を残したい」と語る。
「かけがえのない時間を与えてくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう。永遠に僕の宝物だよ」と喪主のあいさつで家族に呼びかけた男性。
自由のために毎日書き続けているが、戦争、人身売買、犯罪被害者、公害病そして独裁国家の市民など自由を奪われた人たちの供養をしてきた。
災害の犠牲者も自由を奪われた人たちではあるが、相手は大自然だから人為的なものとは一緒にならない。しかし、それだけに犠牲の大きさは半端ない。
2019年9月、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で岐阜県加茂郡白川町にある黒川開拓団乙女の碑にお参りした際、運転手氏が気を利かせてくれて、飛騨川バス転落事故の犠牲者の慰霊碑に案内してくれたので、お参りすることができた。
1968(昭和43)年8月18日未明、岐阜県加茂郡白川町河岐の国道41号において発生した土砂災害によるバス転落事故で乗客107人中104人が犠牲となった災害だから記憶しているひともいるかもしれない。
土砂災害の怖ろしさを如実に表した事故である。
国道の脇にある慰霊碑のある現場から見る飛騨川は崖下に流れているが急流で眺めるだけでも怖ろしかった。
1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)、日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)が群馬県多野郡上野村の山中ヘ墜落した航空事故乗員乗客524人中520人が亡くなった事故で、元大関だった男性の妻と娘3人が犠牲となっており、能登大地震にる珠洲市の男性と同じようなことが起きている。
大地震と飛行機事故を一緒に論じられないだろうが、妻と子ども3人が犠牲となった点は災害であれ事故であれ関係なく痛ましい。
古希を過ぎて、コロナ禍を経て、心身の衰えが隠しようがない自分にとって、連れ合いの存在は宝物というレベルではなく、生きることそのものだから、奪われたら生きていかれそうにない。
保守の論客として知られた西部邁さんが自死をなさったが、その理由は連れ合いを亡くしたからではないかとみられていたことからも、自分と同じ気持ちだったのだろうと推察する。
珠洲市の警察官の男性は、自分と較べてまだ若い。持ち時間もある。立ち直れる可能性はあるのではないか。
妻と子どもたちのことを忘れないあなたが生きていることで、心の中で妻子は生き続けることができる。
泣いて、泣いて、泣いて涙が枯れるまで泣いて生き抜いてもらいたい。
2024年01月17日
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