2023年07月23日

水俣病の歴史と教訓遺構「百間排水口」保存へ

 水俣病の原因企業チッソの水俣工場が工業廃水を流した「百間排水口」のフラップゲート(水門)撤去を巡り、蒲島知事は5日、現地保存の可能性も含めた協議を県が水俣市と始めたことを明らかにした。協議をする間は、撤去を見合わせるよう求めるとした。と7月6日の読売が伝えている。

 蒲島知事は記者会見で「水俣病の歴史と教訓を伝える取り組みは大変重要。ただ、場所は危険性の問題があり、(保存の)方法があるのか検討したい」とし、「協議が終わるまでに撤去することはあり得ない」と述べた。

 百間排水口を巡っては、市は老朽化による安全面を考慮し、6月17日から4基の水門と足場の撤去を始める予定だったが、水俣病被害者や支援者から「水俣病の原点」として現地保存を求める声が出て、延期されている。

 県と市は21日説明会を開き、被害が出る可能性があるなどとして樋門は撤去するとした一方、レプリカを設置し足場とあわせて現地で保存する方針を示した。とメディアが伝えている。

 出席者からは保存の方法について、市民や文化財の専門家などを交えた協議の場を設けて欲しいとの要望が相次いだ。


 メインは語り継ぐ戦争であるが、自由のために書いているから、自由を奪われた人々として、戦没者、犯罪被害者、公害病患者そして、遊女、女郎と呼ばれし女性たちの供養を願っての行脚をしてきた。

 水俣を訪れたのは熊本地震の翌年、2017年の6月のことだった。
 熊本から鉄道で水俣へ。駅前でタクシーの運転手氏に水俣病の資料館までお願いし、患者で亡くなった人達の供養が目的だと話したら、チッソの水俣工場が工業廃水を流した「百間排水口」のフラップゲート(水門)に連れて行ってくれた。

 恥ずかしながら、「百間排水口」のことなど知らなくて大いに勉強になった。
 「この排水口を通じて、1932(昭和7)年から1968(昭和43)年まで、チッソ叶俣工場において酢酸等の原料となるアセトアルデヒドの製造工程で副生されたメチル水銀化合物が工場排水とともに排出され
(一時期、水俣川河口へ排出)、水俣湾は汚染された。
そのため、八代海(不知火海)一円に水俣病が発生した。
百間排水口付近に堆積した水銀を含む汚泥の厚さは4mに達するところもあった。
 1977(昭和52)年、熊本県は汚泥を除去する公害防止事業に着手し、約14年の歳月と総事業費約485億円の巨費をかけて、水俣湾に堆積した水銀ヘドロの埋め立 てを行い、1990(平成2)年、同事業は終了した。
 水俣湾内の魚介類等の安全性を確認するための調査は現在も継続実施されている。
 ひとたび汚染・破壊された環境は、いかに莫大な費用と労力をかけても元に戻す 事はできない。
 このことを私たちは人類の教訓として受け止めていかなくてはならない。」
 と看板に解説が書いてある。

 看板を読めば、水俣病の原点がわかるだろうと市の担当者は考えたのだろうか。
 危険だというが、何が危険なのかよくわからない。

 水俣病に関しては、国も県も市も当初から原因企業チッソ寄りだったことが明らかになっている。
 患者のことなど考えていなかったのはチッソが法人住民税というか、チッソで働く市民が多かったから、市民が分断されたというかで、チッソに物申せなかったからだ。

 水俣病資料館を訪れた時にも、ウエルカムの雰囲気がなかった。
 歓迎されていないことがわかったのは、子どもの頃から感受性が豊かであると通信簿に書かれていたから伝わってきた。

 埋立地エコパークにある慰霊碑にお参りし、迎えに来てくれた運転手氏に乙女塚に行くことを勧められた。

 毎年、5月の慰霊祭はエコパークにある慰霊碑と乙女塚にある慰霊碑で開催されることは書いているが、水俣でウエルカムと歓迎してくれたのは運転手氏であった。
 彼の連れ合いが水俣病の患者だと聞いて納得した次第である。

 今でも、水俣市は患者寄りでないことが明らかである。
posted by 遥か at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題・公害問題
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