「教育ルネサンス」[先生] 第1部 向き合う G、連載中の読売1月24日の紙面に金八先生こと歌手、俳優の武田鉄矢さんが登場し、持論の教師像について熱く語っていた。
「人間を作る最高の職業」「金八先生32年 教室で仲間と学ぶこと大事」という見出しで、教師になってほしいという母親からの期待を背に、国立の福岡教育大学に入学するも、全共闘運動華やかなりしときで、学園紛争の真っ最中で大学は封鎖。高校の同級生に誘われて公園でフォークソングを歌っていた。
4年の秋に教育実習に行ったのを最後に大学を休学し、フォークシンガーという夢を追いかけることにした。
30歳の時、金八先生を演じた。
生徒役の子どもたちは演技ができなかったが、現場で鍛えられ、演技が上達する子どもの姿に教育の本質を見た気がする。
教師になれなかった自分に、教壇に立つ機会をくれた金八先生。「TVで先生しようけん、もうよか。」と休学中も学費を払い続けてくれたおふくろさんが喜んでくれたそうな。
「学校は子どもたちと未来を語り合える場所。先生が先に死ぬけれど、その先を担う若い人たちと対面している。その子が「あの先生こんなこと言っていたな」って思いだす度、何回でもこの世に蘇ることができる。最高の職業ですよ」と結ぶ。
金八先生こと武田鉄矢さんは団塊の世代の同級生ということになるので、活躍される姿を見て喜んでいた。
わが家は母方のご先祖が寺子屋をやっていたとかで、祖父は校長だった。
父親はアジア太平洋戦争で南方に派遣されたが、何とか無事に宇品港に引き揚げてきた。
その父親は苦学して教師になったとかで、在職中に病死している。
自分を含めて3人の子どもの誰かを教師にしたかったのかもしれないが、一番期待された長男の自分は学業成績が芳しくなくて、教師になるどころではなく、二人は学業成績は悪くなかったが、教師の道に進むことはなかった。
「先生」は子どもたちより先に死ぬと武田さんが話していたが、先に生まれると書くのが先生ということもあるし、教師以外でも生きていて誰しもがお世話になる筆頭の職業もまた「先生」と尊敬を込めて呼ばれる。
そういう意味では、自分の連れ合いや子どもがその「先生」と呼ばれている姉や働いていた連れ合いも職場では「先生」と呼ばれていたことに気づく。
ドラマでは見事先生を演じた武田さんが実は教師を目指していたと耳にすれば、誰しも納得であるが、現実の「先生」はクレーマーが増えた保護者や家庭に恵まれない子どもなど学校を卒業して、人生経験も少ない若い人には荷が重すぎる職業となってしまっている感がある。
1964年に東京五輪が開催された翌年だから昭和でいえば、40年の夏休み、父親が夜中に突然血を吐いて、病院に運ばれ、手術をしたら、昏睡状態で口もきけなくなり、1週間程度は入院していたが亡くなった。
亡くなる前、当時は手術で輸血したから、血液を返してもらいたいと病院から指示があり、途方に暮れていたら。父親の教え子たちが献血してくれて、血液を返すことができた。
今でも感謝しているので、また書いてしまった。
この時、父親を見直した。
教え子がここまでやってくれたのだから、きっと、父親は教師として子どもたちと言ってもその時は青年になっていたが、嫌われていなかったのだろうと推測したからだ。
教師という職業は、親とは別であるが、影響力を与えるという点では、親以上かもしれず、佳い先生に巡り会えた子どもはその人生にも大きな影響を及ぼす力があるということがわかる。
それだけにたいへんな職業ということもできる。
エールをおくらないわけにはいかない。
2023年01月26日
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