「地球を読む」というタイトルで、知識人が社会のあらゆる問題について識見を述べる読売の1面に連載されている記事、その9月19日、「コメ・文化・コロナ」が興味深かった。
ジャレッド・ダイアモンド米カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授が述べられたのは「マスク受け入れ 日米に差」「社会的特徴 歴史が培う」という見出しで内容が一目瞭然のように日米のコロナの感染者の数と死者の差はすべからくマスク受け入れの差だと指摘するものである。
米国ではコロナ禍以前、公共の場でマスクを着ける人などいなかったし、大勢の米国人が亡くなっている今でさえ、多くの人がマスクをしていない。
着用を求める規則は個人の自由を侵害していると抗議する。
日本では政府によるマスク推奨を市民が受け入れているが、もともと日本では公共の場でマスクを着ける人がいた。コロナ禍では、感染拡大を防止するため、マスクをしなければならないという社会的な圧力がある。
日米の文化の本質的な違い、日本文化は個人の自由より地域社会との調和や配慮を重視する。
米国文化は個人主義、個人がしたいことをする権利を重んじる。
マスク受け入れの日米の差は、両国が培ってきた稲作と小麦、牛・羊の牧畜による食料生産の違いによる文化の違いを生んだ。
マスクに限らず、農業にも関係なく様々なことに反映されている。
厳格な社会規範と個人の自由とのバランスは、所謂「関係流動性」、対人関係を築く際の自由度に影響を及ぼす。
社会的な差が生まれる要因は。稲作依存に自然災害の頻度や人口密度、資源の有無に応じて、人々は強調したり、個人主義的になったりする。
日本は4つの要因で強い強調が求められる社会になり、米国はその逆だ。
さらに重要なのはマスクを受け入れるかどうかで両国の感染者や死者の差に表れていることなのだ。と結ぶ。
農耕民族と狩猟民族の違いについて欧米人と日本人を比較し、文化の違いみたいなことはよく語られることだが、武家社会が徳川時代まで続いてきた日本は刀剣からくる刃物をつくる技術が世界的にも一歩抜きん出ているほど優れている。
欧米では狩猟ばかりではなく、植民地への侵略では原住民を制圧するときにも銃器が使われ、銃器の開発が進んだ。
西部劇での翻訳の名セリフ「白人二枚舌、インデイアン嘘つかない」と言った原住民はやがて、居留地に追いやられてしまう。
定住する農耕民族、とりわけ、水田での稲作で主食のコメを生産するとき、灌漑用水が必要だが、これは地域の人間が協力しないとうまくいかない。
アフガンで荒地でけしから覚醒剤をつくっていた人たちに農耕での食料生産を奨め、灌漑用水をつくったのは医師の中村哲先生だったが、惜しいかな馬鹿な過激派に殺害されてしまった。
水田での稲作と小麦や牛と羊の牧畜民との違いから、協調性や個人主義が論じられるとは思わなかった。
どうしても書いておきたかったのは、協調性は一見するとよいことばかりのような気がするが、かつて、軍部が台頭し、ファシズムが国を支配すると、その協調性が利用された気がしてならない。
敗戦後も、市民が戦争責任を問う声が大きくならなかった。
ポピュリズムというのか、何もわかっていない人間がヒトラーや東条英機に騙される。
そこでは、自分のような天邪鬼がいて、郵政民営化の時にも反対したように独裁的に何かやろうとする危険性に気づかなければならない。
やはり、想像力を磨かなければダメだ。
マスクは日本人は花粉症が多くて、2月から4月ころまで、欠かせないという大きな理由が抜けている。
コロナで死にたくない自分はワクチンも2回打ったし、マスクもする以前に、ほとんど畑以外行かない。
ワクチンの危険性を指摘する人がいるが、ワクチンで死ぬ方がコロナで死ぬよりいいというのが自分の判断である。
2021年09月26日
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