2021年03月12日

臨機応変に 大川小の悲劇を教訓に

 東日本大震災の津波で児童・教職員84人が死亡・行方不明になった、宮城県石巻市の旧大川小学校。
 震災から10年目となる2021年3月11日、全国2000人の子どもたちが遺族の話を聞く「防災と命の授業」がオンラインで行われた。
 主宰したのは、認定NPO法人「カタリバ」。だと3月11日のハフポスト日本版が伝えている。

 「津波到達まで50分あったのに、なぜ」ということを考えてもらおうと、授業を担当したのは、自身も当時6年生だった二女みずほさんを亡くした佐藤敏郎さん。
 佐藤さんは震災時、隣町女川で中学校の教員だった。

 
 NHKでも放送され、視聴したので一緒に「あの時、どうすれば助かったか」を自分なりに考えてみた。

 出た結論は、マニュアルどおりでなく、臨機応変に対応することを日頃から心がけることが大事だということ。

 亡くなった犠牲者には手を合わせることしかできないし、死者に鞭打つほど愚かではないので、独り言みたいに語るだけだ。
  
 あの時、自分が教員の一員なら、ほかの誰か、例えば校長が何か言おうが、担任を受け持っていれば、その子どもたちを引き連れ、学校より少しでも高い裏山に避難し、そこで様子を見て、津波が来るようなら、さらに高い所へ逃げる。

 結果論で言っているのではない。

 戦争から何とか生き延びて帰国を果たした父親の教えを守れば、結論はこれしかないからである。

 小学生5年生の時には、畑の手伝いで、鍬を持たされ、畑を耕し始めていた。
 厳父だった父は息子から見れば、滅茶苦茶怖いだけで、親に逆らうことなどできはしなかったが、今になって振り返ってみれば、父親のお陰で、祖父が遺してくれた畑を守ることができたからである。
 
 建築に必要な道路がなかった畑はいつだったか、低廉な価格で売ってもらいたいとやってきた人がいたが、自分たちが子どもの頃から耕し、父親が亡くなり、荒れてしまった後、再び、開墾してきれいにした畑だったから、即座にお断りしたおかげで、その後、区画整理される時代がやってきて、今では、手放さないでよかったと安堵しているくらいだ。

 父親は教員だったから、もし父親が大川小にいたら、まず、子どもたちを裏山に避難させたであろうことは疑う余地がない。
 その危険予知能力がないようでは、戦争で生き残れるはずがない。

 「津波てんでんこ」だったか、とにかく、臨機応変にひとりでも裏山なり現在地より少しでも高い所があれば逃げ、さらに、逃げられるようにするということが当たり前になればいい。

 ただし、裏山があった大川小はまだしも、仙台のように平らで高台がない地域は、日頃から避難する場所を決め、覚悟しておく必要があるだろう。

 戦争は普段から心がけて世の中の動きを見ていれば、ある程度防げるが、災害はいつ、どこで起き、誰が巻き込まれるかわからない。

 気を付けようがないのかと思えば、そうでもないのである。

 現に、大川小学校では逃げ遅れてしまったが、早めの避難で難を逃れた人たちがいるのもまた事実である。

 他県出身の教職員の中に地元出身の人がいて、その人が親からの言い伝えを守り助かったということを以前書いたことがある。

 先祖が遺した津波到達点の標識、神社の位置などが逃げ場として参考になる。
posted by 遥か at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 災害対策
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