2011(平成23)年3月11日の東日本大震災から間もなく10年になる。
10年といえば、日本では節目の年として、メモリアルな行事やメデイアでも関連特集が組まれたりすることが多い。
読売は「東日本大震災10年 『わたしは今』『聴く語る』」と題し、2月10日、12日と関係者のその後を伝えていた。
たまたま同数程度だったのか、岩手県山田町で助かった児童が約160人で、同じく岩手県釜石市で犠牲となった住民が約160人だと知り、何故、明暗を分けたのか興味を惹かれた。
あの日、山田町の町立船越小学校は津波に飲まれたが、児童約160人は校務員田代修三さん(64)の一言で難を逃れたというのだ。
あの時、激震の後、校長だった佐々木道雄さん(63)は、校庭に集まった児童たちを高台に避難させるべきか迷っていた。というのも小学校は海抜13bの位置にあり、町の避難所にもなっていたからだ。
校庭からは校舎にさえぎられて海が見えなくて、内陸から来た教員が多かったので、地元育ちの田代さんが200b先の防潮堤まで行き、水平線が盛り上がるという景色に校庭まで走って戻り、「とんでもない津波が来る。後でなんで逃げたんだって笑われてもいいから、上に行った方がいい」と校長に訴えた。
佐々木さんは田代さんを信じ、裏山への避難を決めた。
一方、釜石では2010年のチリ地震の津波では、市の人口4万人のうち避難したのは1000人ほどだったから、防災課長に就任すると、佐々木守さん(66)は自主防災組織の設立、避難訓練を実施するようにした。
震災の前年に開所した鵜住居地区防災センターが避難所ではなく、災害後に数日間を過ごすための「拠点避難所」だったにもかかわらず、避難訓練の時の場所として使っていいかと聞かれ、「いいですよ」と答えてしまった。
避難訓練の度に使われたセンターは、住民が津波の時に「まず、センターに逃げる」という意識が地域に定着した。
当日、津波でセンターの2階の天井近くに水は達し、避難していた住民約200人のうち、160人以上が犠牲となった。
岩手県釜石市は震災で1000人以上の犠牲者を出してしまい、「津波の映像を見ると体が震えるようになってしまった。自分の古里でもある地域にあるセンターにいた住民たちの顔を想像してしまう」からだと言う佐々木さんは、総務省消防庁に任命された「語り部」として活動している。
明暗を分けたのは、紙一重で学校の校務さんが昭和の大津波を経験した父親から、「1bでも高いところに逃げろ」と教育されていたから、そのことを忠実に守った田代さんの提言に学校長が従い児童は助かった。
大川小の例もある。
一方で、釜石では避難訓練の際、正式な避難場所まで逃げることをしなかったことから、住民の心に津波は来ないという思い込みが出来上がってしまったことが不幸を招いたということになりそうだ。
明暗を分けた事例はコロナ禍の政府の対応に重なる。
徹底的なPCR検査をさせずに、経済優先政策をとった安倍内閣、菅内閣の失政で、すでに7000人ものコロナ感染者が死んでいる。
小泉総理が自民党をぶっ壊してしまい、そのあとの安倍内閣が森友、加計、櫻を観る会と長期政権、かつ野党がダメなことをよいことに好き勝手をやって、日本をダメにしたとき、コロナが中国武漢から上陸した。
1月4日の読売に新年展望として、自民党の谷垣禎一元自民党総裁が「昔の自民党は党内で疑似政権交代がなされてきた。
さらに優れた指導者大平正芳元総理が「楕円の理論」として、二つの中心が均衡を保ちながら全体の調和を図っていくということを訴えていた」と語っていた。わかりやすくいえば、安倍、菅政権の如く独裁政権のようになってはだめだということだろう。
アベノマスクを配るのではなく、PCR検査やワクチンを作るためにカネを使わないでどうするというのだ。
国のリーダーがダメだと国は亡びる。
日本は絶望的だ。
2021年02月19日
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