2025年09月27日

戦時社会を支えさせられた女性たち

 銃後という言葉がある。80年経って、もう今では死語となっているかもしれない。
 日本軍が勝手に始めた戦争にもかかわらず、軍人たちだけでは手に負えないからと召集という名の徴兵で働き手を兵士として軍隊にとられ、戦場に送られた社会を維持することを「銃後の守り」と呼んだ。

 当然、残されたのは女性と子どもとお年寄りだから、銃後を支えさせられたのは女性たちということになる。
 「銃後生きた女性たち」「本社焼失資料復元進む」「戦時社会 女性が支え」という見出しで、9月19日の読売(保高芳昭編集委員)が戦後80年、昭和百年の特集として伝えている。


 言葉遊びではないが、銃後とはなかなかうまいこと言うなと感心する。
 その銃後で起きたこととして、嫁が義父と結ばれ、子どもがだんだん義父に似てきたという自分の生まれ育った首都圏の田舎町で実際にあったとされる事件がある。

 この事件は日本全体でみれば、かなりの数に上るのではないかとみている。
 銃後を象徴する事件ではないか。
 
 働き手を軍隊に奪われた家庭では、生活に困ったことであろうと推察する。
 残された家族が力を合わせてとなれば、こんなことも有ったであろうことは容易に想像できる。

 戦争になると、弱い立場の女性、子どもそして、年寄りたちが酷い目に遭うことは満州(現中国東北部)で起きたことで証明されている。

 満蒙開拓団を国策として、推奨した政府、そのバックにいた日本軍は、植民地支配の要として、満蒙開拓団を企図し、同時に16歳から19歳の男子を満蒙開拓青少年義勇軍として送り出した。
 開拓という名で呼ばれたが、現実に海を渡ってみれば、働き手は根こそぎ動員、少年たちは15歳になると勤労動員されたから、開拓団に残っていたのは女性と子ども、お年寄りということで、そこに、ソ連軍が侵攻してきたから、女性たちはソ連兵ばかりか現地の男たちにも性的暴行され、略奪された。
 少年たちの動員については、田原和夫『ソ満国境15歳の夏』(築地書館)での証言がある。
 日本国内でも、働き手を軍隊に奪われ、15歳にもなれば、勤労動員ということで、若い者も奪われている。国防婦人会などの名称で女性たちを都合よく使ったのが政府や日本軍の男たちだった。

 冷静に考えれば、女性は戦争に反対するのが当然ではないかと思うが、今、行われている自民党総裁選に立候補している女性は靖国神社大好き人間で、タカ派として知られ、台湾有事になれば、戦争も辞さないとみられている。

 戦争になれば、夫や息子だけでは少子化で兵力が足りないので、女性も徴兵されることはわかりきったことだから、銃後どころか、女性たちは戦争反対の声をもっと大きく訴えた方がいい。