「戦後」の終止符 まだ遠く」という見出しで9月13日の読売(鈴木雄一論説委員)が夕刊のとれんどというコラムに「全国ソロモン会」36人がガダルカナル島、通称餓島で行われた慰霊法要に列席したことと遺骨収集の遅れについて書いている。
一行を率いたのは同会常任理事の崎津寛光さん(53)。東京は浅草の日蓮宗の壽仙院の住職でもある。
崎津さんは餓島の関係者ではない。「戦死者の慰霊供養こそが仏教の勤めではないか」。と島を訪れるようになった。同会入会後ボランティアの派遣隊を結成し、現地の協力を得ながら600柱以上を収容した。訪問は30回近くになり、現地村落との親善にも努めてきた。
16年遺骨収容を国の責務と定めた法律が成立した。
収容可能とされる約59万柱のうち、法施行後の実績は4000柱に満たない。身元を特定するためのDNA鑑定に時間がかかることなどが理由だという。
餓島にも6000余柱が残されている。
仏教者でもある崎津さんは「供養されていない英霊に『忘れていない』と伝える意味もあるんです」と語る。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のために行脚を続けてきたのは戦没者、死没者に『忘れていない』という心持からである。
各地の慰霊碑を訪ね歩いていた時、遊女、女郎と呼ばれし女性たちの供養もしてきた。
遊女、女郎と呼ばれし女性たちには生きた証しさえない女性が少なくないが、数少ない慰霊碑、供養塔に残されている女性たちにも『忘れていないよ』という自分の想いがある。
医師はアフガンで殺された中村哲さんのような世のため、人のために身を犠牲にして尽くす高邁な心を持った人が少なくない。
ところが、人が死んだとき、あの世への旅立ちを見届ける仏教者にも本来立派な僧侶がいるはずだが、知る限り少ない。
浅草壽仙院の崎津寛光住職は「戦没者の慰霊供養こそが仏教者の勤めではないか」と自分と同じ考えに辿り着いたというので、嬉しくなって書いている。
「日蓮宗のお題目は『南無妙法蓮華経』と唱えます。南無とは帰依することで、法華経の教えに心から従いますという意味です。
日蓮聖人は、このお題目を口で唱えることによって私たちの身体そのものが仏となり、この世がそのまま浄土の世界になるという教えを説いています」とは寺の㏋で住職が説いていることだ。
浄土宗の法然上人は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも極楽浄土に行かれると説く。
戦争で戦没した人たちの慰霊をする。遺骨を収集する。
すべからく、感謝の気持ちと忘れていないという意思表示とその実践である。