「風船爆弾をつくった 機関銃持ったソ連兵が家に押し入り くぐりぬけた死線」というタイトルで9月7日の産経新聞のWEBが満州での出来事を伝えていて興味深かった。
1945(昭和20)年、終戦の8月15日を過ぎても戦争が終結しない地域があった。ソ連が8月9日に現在の中国東北部にあった「満州国」へ侵攻。9月まで戦闘が続き、シベリア抑留や中国残留孤児などその後の悲劇を招いた。戦後80年、当時を知る関係者は年々少なくなっているなか、満州で10代を過ごした90代の女性3人に語ってもらった。長い年月がたったが、現地での暮らしが敗戦で一転した、厳しい現実を忘れてはいなかった。満州の生き証人≠フ貴重な証言を紹介する。
3人は滝田和子さん(98)=兵庫県西宮市、ア山ひろみさん(95)=高知市、広沢嘉代子さん(92)=大阪市
父が警察関係の幹部だったのでソ連兵に連れていかれました。12歳離れた長兄も連れていかれ、帰ってきませんでした。兄は約3年間、シベリアに抑留されていました。とは滝田さん。
ソ連兵の物とりには2回入られましたよ。女性はみんな丸刈りにして男の格好をするようにしていましたけど、向こうの兵隊は知っているので、胸を触ってくるんです。近くの女子寮では女性が裸で飛び降りて逃げる事件もありましたよ。
気球をつくると思っていました…。直径5〜6メートルの風船。重労働だった。と当時はわからなかった風船爆弾を学徒動員で作っていたという崎山さん。
新京の官庁街にあった家にソ連兵が土足で踏み込んできて、荒らされました。あわてて天井裏に逃げ隠れました。その後は女性と分からないよう頭を丸刈りに。
母親からは「もしものために」とお守り袋を渡され、見るとその中に青酸カリが入ってた。一度、家の庭にマンドリンと呼ばれる機関銃を担いだソ連兵が現れ、青酸カリを使う覚悟をしたことがあります。隠れていて気づかれず、使わずに済みました。
ソ連参戦を知らなくて学校に行ったら、2、3人しかいませんでした。軍隊関係の子はわかっていたのか、みんな避難していたんですよ。という広沢さん。
うちにもピストルを構えたソ連兵が来ました。でも母が肝っ玉母さん≠ナした。にっこり笑って握手してスープを飲ませたら喜んで何もとらずに帰っていき、それから毎日3人くらいで「ママ」と言ってはやってきました。母が白系ロシア人のメイドから料理を習っていたのがよかったのでしょう。周りは戦々恐々でしたが、うちは彼らが遊びにきていたことで平和でした。引き揚げまでの間は、母のおかげで比較的安心して暮らせた思いが残っています。
でも、夜は怖いから天井裏で寝ていましたし、髪を切って顔に炭を塗ったりしました。
語り継ぐ戦争の立場から、満州侵略で中国人の土地を取り上げたも同然で満蒙開拓団が入植し、アジア太平洋戦争の戦況が不利になった1945年8月9日未明、ソ連軍が侵攻、侵略してきた満州では〜傀儡政権とは言いながら、関東軍がいて、国だから役所があり、警察があって、南満州鉄道があり、満蒙開拓団の人たちが入植していたから、日本人の引き揚げを一括りにして語ることは正確とは言い難い。
ソ連軍が侵攻してきたことをいち早く察知した軍関係者、満州国の役人などは引き揚げも比較的早かった。
ところが、ソ満国境近くに関東軍を補完するような役割をさせるべく入植させられた開拓団は簡単には逃げられず、集団自決の話があちこちで流れた。
さらに、開拓団とは異なり、満州にあっては、都市部というか大きな街にいた3人は開拓団員と較べれば、はるかに恵まれていた。
3人は98歳、95歳、92歳という年齢だから80年前ということを考慮すると18歳と15歳、12歳ということになり、12歳はともかく、18歳ともなれば、ソ連兵に性的暴行されやすい年齢だから、大変だったろうと推察する。
印象に残ったのは広沢さんの母親がソ連兵をスープでもてなしたから、家族が無事だったと証言していることだ。
銃やマンドリンと呼ばれた機関銃を突き付けられれば、笑顔で歓待することは極めて難しい。
にもかかわらず、白系ロシア人のメイド仕込みのスープだったから喜ばれたらしいが、まさに、肝っ玉母さんそのものである。
満州からの引き揚げで、日本人女性が性的暴行されるのを目撃した話は履いて捨てるほどだが、被害者が語っていることはほとんどない。
『黒川の女たち』を観て、ソ連の将校たちに開拓団を守ってもらう代償に15人の開拓団の娘たちが性奴隷として差し出されたことを証言した人たちには本当の勇気があると称えたい。
満州からの引き揚げとは言うものの、それぞれの立場で苦労も異なるようだ。