2025年09月01日

宇佐海軍航空隊基地と特攻 宇佐市塾が語り継ぐ

 終戦80年企画『財前直見 知られざる“特攻の町” 我が故郷 戦争の記憶』8月31日BSフジが放送した内容に心を揺さぶられたので書いておく。
 「玉音放送の後の8月15日夕方、大分から11機の特攻機が飛び立った。
 戦争は終わっていたのに、一体なぜなのか。
 知られざる“特攻の町”宇佐の真実を、大分出身の俳優・財前直見がひもといていく。
 当時の滑走路や掩体壕など、今も町に残る基地の痕跡。この町から出撃した若き“特攻学徒兵”が書き綴った日記と、息子を特攻へと送り出す母親の思い。
 さらに米軍の戦闘機が空襲の際に撮影していた“ガンカメラ映像”の解析に尽力する地元住民の取り組みも紹介する。
 一方、玉音放送後に飛び立った“最後の特攻隊”の真実を20年以上にわたって追い続ける女性や、米軍から「人間爆弾」と呼ばれた究極の特攻兵器「桜花」を開発した技術者の、苦悩に満ちたその後の人生を取材。
戦争を直接経験した人々が減っていく中で、当時を知らない世代が“特攻”にどう向き合い、どう語り継ぐのか。
 戦後80年の節目に、「知られざる特攻の町・宇佐」を通して、その真実を見つめ直すドキュメンタリー」と㏋にある。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で宇佐を訪れたのは2012年5月、目に青葉という新緑が印象に残る季節のことだった。
 同行してくれている家族へのサービスで、湯布院に泊まり、タクシーで耶馬渓や青の洞門を観て宇佐に行ったので、慰霊の旅としては事前の調査が不十分だったこともあったかして、時間が足りなかったが、一番の収穫は豊の国宇佐市塾平田崇英塾頭にお目にかかることができ、ご教示を受けられたことである。
 教覚寺第二十代住職ということで寺を訪ねると、慰霊の旅ということもあってのことか、歓待していただいた。
 俳優大河内伝次郎との縁や横綱双葉山、作家横光利一の出身地であることなども余談ではあるが知ることができた。
 平松守彦知事が提唱した「一村一品運動」から人材育成としてできたのが「宇佐市塾」らしいが、大分に宇佐海軍航空隊基地があったことから、塾で、語り継ぐ戦争として特攻隊のことを伝えている。
 エールをおくりたい。

 尺八の先輩が宇佐海軍航空隊基地で特攻隊が飛び立つのを帽子を振って見送ったとのことで、慰霊の旅というなら、是非、一度は宇佐にと薦められて訪ねたというわけである。

 玉音放送の後の8月15日夕方、大分から11機の特攻機が飛び立った。
 城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』(新潮文庫)を買い求めて読み、それまで全く知らなかった事実に心を激しく揺さぶられた。

 特攻隊に出撃命令をしていた宇垣纒海軍中将が部下の中津留達雄大尉に命令し、玉音放送後であるにもかかわらず、部下を道連れに沖縄方面に特攻したのである。
 命令された中津留達雄大尉は玉音放送後であることを考慮し、米軍艦船に特攻することはなかったらしい。
 縦社会の軍隊では、上官の命令となれば、部下は従わなければならないし、中津留達雄大尉と同行した特攻隊員は気の毒というしかない。
 その中津留達雄さんは大分県出身だという。

 玉音放送後の特攻に血縁者がいたことから、疑念を抱いた福島県郡山市の道脇紗知さんが、特攻隊員に手紙を送り、生存者の証言を得たことはすでに書いている。
 その道脇さんが宇佐を訪ねるのを見て、しっかり特攻隊のことが語り継がれていくことができそうで安堵した。

 戦闘機を隠す掩体壕も見学したが、全国を探しても、もう残っている掩体壕は少ないのではないか。
 
 俳優財前直見さんは大分で農業をしていると耳にしたことがある。
 著名な人が戦争を語り継ぐことで、影響力を行使してほしい。