2025年09月11日

海洋プラごみ 溶ける素材に注目、廃棄漁網 服やバッグに

 日本で最も深刻な海洋プラスチックごみ問題の一つが、漁網や釣り糸などが海に流出して漂う「ゴーストギア(幽霊漁具)による被害だこの問題の解決策として、海で溶けるプラスチックの研究が注目されている。と8月4日の読売(鬼頭朋子記者)がくらしサイエンスの紙面で伝えている。

 解決策の切り札として注目されているのが海中にいる微生物の働きで水と二酸化炭素に分解する「海洋生分解性プラスチック」だ。
 東京大学や愛媛大学などのチームは高分子化合物「ナイロン」の一部は海水に長期間つければ分解できるとする研究成果を2025年発表した。

 環境省の調査によれば、海岸に漂着したごみのうち、約7割(重量比)はプラスチックで、漁網などの漁具が約6割を占めた。
 15年度から、回収に取り組む自治体には補助金を出す制度を設け、2025年度は約37億円を投じた。

 一方で、廃棄漁網を再利用した素材を使い、服やバックに商品化した気仙沼の元地域おこし協力隊員、加藤広大さん(28)の取り組みについて8月30日の読売(浅井望記者)が夕刊で伝えている。


 お勤めをしていた頃、半世紀も前の時代は職場で旅行したりしたことがあった。
 伊豆の熱川だったか、土産物店で漂着した流木を使ったものいれが気に入り、買い求めて大事にしている。
 古いタイプ、時代遅れの後期高齢者の一員としてはプラスチック製品は便利だから使うけれど、好みではない。竹や木工製品が好きだ。

 プラスチックは地中の微生物でも分解させられず、早く言えば、腐らないから、畑ではごみとなるだけである。
 ところが、近年驚くべきことが起きた。
 ほとんどの農家が使っているだろう草除け、保温などに効果がある黒いマルチングシート(通称マルチ)が微生物によって堆肥化できることになったというのだ。

 有機無農薬での野菜作りを実践している立場としては、マルチを使ったことがなかった。実際に使っていないわけだから、マルチが堆肥化できても直接的には関係がないが、ごみを減量できるのは佳いことである。

 畑則ち地中の微生物には大いに関心があるが、海に行くことは少ないし、釣りもしないから漁具のプラスチックの微生物による分解を意識することは少なかった。

 ペットボトルが海に漂流中、マイクロチップス化して、環境問題で騒がれている。

 海は広いし、大きいから目立たないが、海を汚すのは人間であり、プラスチックの便利さを知ってしまったのも人間だから結果的に自分で自分の首を絞めることになる。
 プラスチック系の品物が微生物によって、分解されることは環境問題で大きな進展である。

 再利用した素材を使った服やバックとして商品化することもプラスチック製品をただ捨てないという意味においては大変佳いことだ。
posted by 遥か at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題・公害問題

2025年09月10日

乗り合わせた飛行機で人命救助。医師に感謝のエール

 「お客様の中にお医者様はいませんか」…NY行きANA機で乗客救命、ためらう医師の脳裏に「訴訟リスク」というタイトルで、9月10日の読売(岡絃哉記者)WEBの記事に興味を惹かれて読んだ。

 羽田空港から米ニューヨークに向かう飛行機内で急患の命を救ったとして、札幌市中央区の医療法人社団「土田病院」理事長の医師・土田茂さん(56)が東京消防庁の「消防総監賞」を受賞した。同様の場面に居合わせても、十分な設備がない中での対応に二の足を踏む医師は少なくないというが、土田さんは「自分にやれるだけのことをやっただけ」と振り返る。

 「軽い頭痛くらいかな」。そう考えて名乗り出た土田さんだが、CAの案内で乗客男性(69)と向き合った瞬間に血の気が引いた。男性は呼吸ができず、心肺停止直前の状態だった。

 男性は機内食を喉に詰まらせたという。土田さんは慌てることなく、自動体外式除細動器(AED)を使用しながら胸骨の圧迫を繰り返す。数分が過ぎて男性の呼吸が戻った瞬間、「何が起きてもいいように」と常に持ち歩いている医療用の手袋を装着し、喉を塞いでいた肉片を取り除いた。


 8月23日の朝、連れ合いが庭で転んで膝が痛いと足を引きずって、この日、約束していた津軽三味線のお稽古には臨んだ。
 お師匠さんが心配してくれて、すぐにお医者に行った方がいいと少し早めにお稽古を切り上げてくれたので、かかりつけの整形外科に車で連れて行った。
 膝のお皿が割れているので手術が必要だからということで、紹介状を書いてもらい街の公立病院に行きたかったが、生憎土曜日で休みだったため、患部を固定してもらい、月曜日に行くと、手術することになった。
 手術日の前日でないと入院できないと言われ、結果的に29日に手術ということになり、28日から入院となった。

 普段から自分の命より大事な存在だと公言してはばからないほど大事な連れ合いが入院してしまうとたちまち生活が一変してしまった。
 連れ合いがやってくれていたことを自分がやらなければならないということになるから、買い物、食事の支度、洗濯とその上で、この時期は畑が超多忙で自分で食事の支度する時間がないので、出来合いのお惣菜をスーパーで買い求めて食べるということで本当に大変だった。

 大事な大事な存在だから、手術後ほぼ毎日面会に行った。面会に行かなかったのは1日だけということで、同室の女性が「毎日、面会に来てくれるなんて、やさしい旦那様ね」と誉めてくれたらしい。
 連れ合いは「自分が困っていることを訴えたいんでしょ」と照れ隠しに応じたらしい。

 昨、9月9日に退院して佳いということに一昨日医師から許可が出たので、迎えに行った。
 連れ合いの愛車はパジェロだが、自分は運転が下手なので、愛車の軽トラで迎えに行った。
 以上が、連れ合いの転倒による膝の手術のための入院の顛末である。

 さて、40代早々から炎症性腸疾患クローン病で3か月入院し、その後も腸閉塞で2回、尿路感染症が悪化し腎盂腎炎になってしまい入院しということで、検査入院は抜きにしてもいつもお医者の先生にはお世話になっている。
 腹痛がずっと続いていたので、8月26日、腹痛の原因を調べるためにCT検査をしたが、結果ははっきりした原因は不明のままだった。
 今も、腹痛が続き、気持ちが弱気になっているところに大事な連れ合いが入院ということで参っている。

 私事を披歴して、恐縮であるが、事程左様に医師の先生方にはお世話になりっぱなしである。感謝してもしきれないほどの存在が医師の先生方である。

 飛行機は怖いから乗りたくないが、家族サービスと語り継ぐ戦争で数えるほどだが乗っている。
 飛行機で具合が悪くなったら嫌だなと思ったことは何回となくあるが、偶然とは言いながら、医師が搭乗していることもまた珍しくないということなのか。喉に肉を詰まらせた男性はラッキーだった。
 
 誤嚥性肺炎の恐怖は他人事ではない。
 高齢になると、あちこちガタガタである。

 最後に医師の先生には感謝の言葉「お陰さまで」とお礼を申し上げたい。
posted by 遥か at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 医療

2025年09月09日

「人は変われる」元暴力団男性が更生支援

 戦後80年の夏だったから、語り継ぐ戦争に関してメディアも熱心に取り組み、語り継ぐ戦争の立場から積極的に取り上げてきた。
 アジア太平洋戦争に関しては書きたいことはまだまだあるが、追々書いていくこととして、吹く風に秋を感じる9月初旬が終わる頃だから、「人は変われる」話を書いておきたい。

 初めに断っておきたいのは、基本的に人間がやることはいつの時代になっても変わらない。
 戦争になれば、兵士は女性に性的暴行するし、普段だって、性暴力がなかなかなくならない。

 しかし、本人が気持ちを改め、変わろうとすれば、初めて人は変われるということは興味深いことなので書かないわけにはいかない。

 元暴力団員の男性が更生支援の一般社団法人を設立し、出身地の栃木県栃木市で自立準備ホームを運営している。と8月23日の読売(脇上怜大記者)が夕刊で伝えている。
 非行に走り、行き場をなくした人を受け入れ、二人三脚で再犯防止に取り組む。
 「人は変われることを自分の背中で伝えたい」というのは一般社団法人「希望への道」代表理事の遊佐学さん(50)だ。元暴力団員で服役経験を持つ。薬物依存に苦しんできた。
 自立準備ホームは民家を活用し「俺ん家」と名付けた。入居者と寝食を共にし、早朝、仕事に向かう10歳代の少年1人を見送った後、掃除や夕飯作りをこなす。

 自立準備ホームは4月1日現在、全国562の事業者が登録されている。
 遊佐さんは暴走族から暴力団員となった。24歳のときだった。
 覚せい剤を乱用して、30歳の時、自宅マンションの5階から飛んだ。右足に後遺症が残ったが組織は破門になった。
 栃木に帰り、定職に就こうとはしたが、就けず、覚せい剤の売人になり、摘発され服役している。
 開設資金は約530万円。貯金やクラウドファンディングで集めた。2024年12月に準備ホームをオープンさせた。
 今秋、新たに2人を迎える。


 先の参議院議員選挙でれいわ新選組の東京選挙区から立候補した元衆議院議員の山本ジョージさんが自身の服役体験から、刑務所に収容されている障がい者や高齢者など社会的弱者のために活動されているということで、更生支援こそ、最大の犯罪被害者支援だという日頃の自分の考えから、山本ジョージさんを応援したが、残念ながら当選はできなかった。

 世の中のほとんどの人がわかっていないことがある。
 それは、強者、弱者、普通の人それぞれ紙一重の位置にいるということ。
 今回の選挙で落選した自民党裏金議員かつ、差別発言で物議を醸していた女性だって、負傷したり、病気になったりすれば、己の態度を改めるに違いない。
 他人に対する思いやりがないのは想像力がないことが一番の理由である。

 聞いた話で、恐縮であるが、生活保護のケースワーカーを指導していたことがある男性は、ワーカーと相談者は紙一重だということを口癖のように話していたそうな。

 持病を抱えながら、後期高齢者になるまで生きられるとは信じられないことだが、この年齢まで生きられたのは生かされたからだと自覚している。
 しかし、長い人生で一つも他人から後ろ指をさされることがなかったかといえば、そんなことはありえない。
 確かに、刑務所に収容されたことはないが、恥ずべきことの一つや二つがないわけがない。

 運が佳かったことと、自分には他者より想像力が豊かであるという長所があったからだ。

 だから、山本ジョージさん、遊佐学さんにエールをおくりたくなるのだ。
 人は変わろうとする意志があれば、変わることができるのだ。

2025年09月08日

模擬原爆18都府県に49発

 戦後80年 昭和百年で読売(波多江一郎記者)が伝える語り継ぐ戦争、その8月4日は模擬原爆、埋もれた悲劇だった。
 ナガサキで使用された原爆「ファットマン」とほぼ同じ重さの1万ポンド(4・5d)爆弾で18都府県に49発投下されたと紙面に解説があった。
 内部には通常の爆弾が詰め込まれていたが、着弾時にクレーターができるほどの威力があった。

 戦後、模擬原爆の存在に光を当てたのは愛知県の市民グループ(「春日井の戦争を記録する会」だった。
 1986年に中学教諭らで結成した同会は米軍が本土爆撃の効果を検証した調査団の報告書を精査し、終戦前日の45年8月14日、春日井市が狙われた空襲を調べていくうち、報告書の記述の脇に「スペシャル17番」という単語があることに気づいた。
 研究者らの間ではヒロシマとナガサキに投下された原爆は「スペシャル13番」と同じく16番と知られているのだ。同会の金子力さん(74)は「春日井の空襲と原爆は関連している」と直感したそうな。
「空襲・戦災を記録する会」の工藤洋三さん(75)(山口県周南市)も加わり、読み解くうちに、B29が原爆と同じ形状で同質量の模擬原爆を搭載し、極秘裏に日本上空で投下訓練を繰り返していたことを突き止めた。

 18都府県で計49発が投下されていて、このうち46発は着弾地点まで特定した。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で新潟県長岡を訪れたのは2017年8月のことだった。
 長岡は驚いたことに米軍による空襲、空爆の犠牲者の名前を特定している珍しい街である。
 全国でも自分が知る限り長岡だけではないか。
 ここで、さらに驚いたのは原爆の標的に長岡がされていたことを知ったときである。
 1945年7月20日に長岡に模擬原爆が投下されたということを知った。長岡空襲の12日前のことだという。

 長岡空襲の資料館はささやかな施設であるが、空襲の犠牲者の特定と模擬原爆の投下された街ということで大いに勉強になった。

 春日井といえば、東海テレビ『人生フルーツ』を観たとき、春日井市高蔵寺ニュータウンの一隅にある住居で暮らす建築家津端修一、英子夫妻の生活を垣間見ることができ、こういう暮らしもいいなと思った。
 残念ながら、春日井市に行く用事がなかったので、詳しいことは不明ながら、津端さんの庭の樹木の多さにこれぞ人の棲み処だと感心したものである。

 そう、東海テレビといえば、名張の毒ぶどう酒事件のえん罪を訴えながらも、八王子の医療刑務所で死亡した奥西勝さんの無念の思いと再審請求を引き継いだ岡美代子さんの活動を描いた『いもうとの時間』を制作し、この映画を観て、冤罪を再確認したものである。

 とにかく、原爆投下されたのはヒロシマ、ナガサキであるが、ほかにも候補地はいくらでもあったことになる。

 軍が降参するのが遅かったために、原爆を二つも落とされてしまった日本。
 米軍だけの責任ではなく、日本軍にも責任があるというのが自分の考えである。

2025年09月07日

戦争における理不尽さが凝縮された満州

 「風船爆弾をつくった 機関銃持ったソ連兵が家に押し入り くぐりぬけた死線」というタイトルで9月7日の産経新聞のWEBが満州での出来事を伝えていて興味深かった。

 1945(昭和20)年、終戦の8月15日を過ぎても戦争が終結しない地域があった。ソ連が8月9日に現在の中国東北部にあった「満州国」へ侵攻。9月まで戦闘が続き、シベリア抑留や中国残留孤児などその後の悲劇を招いた。戦後80年、当時を知る関係者は年々少なくなっているなか、満州で10代を過ごした90代の女性3人に語ってもらった。長い年月がたったが、現地での暮らしが敗戦で一転した、厳しい現実を忘れてはいなかった。満州の生き証人≠フ貴重な証言を紹介する。

 3人は滝田和子さん(98)=兵庫県西宮市、ア山ひろみさん(95)=高知市、広沢嘉代子さん(92)=大阪市
 
 父が警察関係の幹部だったのでソ連兵に連れていかれました。12歳離れた長兄も連れていかれ、帰ってきませんでした。兄は約3年間、シベリアに抑留されていました。とは滝田さん。
 ソ連兵の物とりには2回入られましたよ。女性はみんな丸刈りにして男の格好をするようにしていましたけど、向こうの兵隊は知っているので、胸を触ってくるんです。近くの女子寮では女性が裸で飛び降りて逃げる事件もありましたよ。
 
 気球をつくると思っていました…。直径5〜6メートルの風船。重労働だった。と当時はわからなかった風船爆弾を学徒動員で作っていたという崎山さん。
 新京の官庁街にあった家にソ連兵が土足で踏み込んできて、荒らされました。あわてて天井裏に逃げ隠れました。その後は女性と分からないよう頭を丸刈りに。
 母親からは「もしものために」とお守り袋を渡され、見るとその中に青酸カリが入ってた。一度、家の庭にマンドリンと呼ばれる機関銃を担いだソ連兵が現れ、青酸カリを使う覚悟をしたことがあります。隠れていて気づかれず、使わずに済みました。

 ソ連参戦を知らなくて学校に行ったら、2、3人しかいませんでした。軍隊関係の子はわかっていたのか、みんな避難していたんですよ。という広沢さん。
 うちにもピストルを構えたソ連兵が来ました。でも母が肝っ玉母さん≠ナした。にっこり笑って握手してスープを飲ませたら喜んで何もとらずに帰っていき、それから毎日3人くらいで「ママ」と言ってはやってきました。母が白系ロシア人のメイドから料理を習っていたのがよかったのでしょう。周りは戦々恐々でしたが、うちは彼らが遊びにきていたことで平和でした。引き揚げまでの間は、母のおかげで比較的安心して暮らせた思いが残っています。
 でも、夜は怖いから天井裏で寝ていましたし、髪を切って顔に炭を塗ったりしました。


 語り継ぐ戦争の立場から、満州侵略で中国人の土地を取り上げたも同然で満蒙開拓団が入植し、アジア太平洋戦争の戦況が不利になった1945年8月9日未明、ソ連軍が侵攻、侵略してきた満州では〜傀儡政権とは言いながら、関東軍がいて、国だから役所があり、警察があって、南満州鉄道があり、満蒙開拓団の人たちが入植していたから、日本人の引き揚げを一括りにして語ることは正確とは言い難い。

 ソ連軍が侵攻してきたことをいち早く察知した軍関係者、満州国の役人などは引き揚げも比較的早かった。
 ところが、ソ満国境近くに関東軍を補完するような役割をさせるべく入植させられた開拓団は簡単には逃げられず、集団自決の話があちこちで流れた。

 さらに、開拓団とは異なり、満州にあっては、都市部というか大きな街にいた3人は開拓団員と較べれば、はるかに恵まれていた。
 3人は98歳、95歳、92歳という年齢だから80年前ということを考慮すると18歳と15歳、12歳ということになり、12歳はともかく、18歳ともなれば、ソ連兵に性的暴行されやすい年齢だから、大変だったろうと推察する。

 印象に残ったのは広沢さんの母親がソ連兵をスープでもてなしたから、家族が無事だったと証言していることだ。
 銃やマンドリンと呼ばれた機関銃を突き付けられれば、笑顔で歓待することは極めて難しい。
 にもかかわらず、白系ロシア人のメイド仕込みのスープだったから喜ばれたらしいが、まさに、肝っ玉母さんそのものである。

 満州からの引き揚げで、日本人女性が性的暴行されるのを目撃した話は履いて捨てるほどだが、被害者が語っていることはほとんどない。

 『黒川の女たち』を観て、ソ連の将校たちに開拓団を守ってもらう代償に15人の開拓団の娘たちが性奴隷として差し出されたことを証言した人たちには本当の勇気があると称えたい。

 満州からの引き揚げとは言うものの、それぞれの立場で苦労も異なるようだ。 

2025年09月06日

戦没者の慰霊と戦争を語り継ぐ施設

 関東大震災から102年となる9月1日、1923年の関東大震災で亡くなったおよそ5万8000人の遺骨が納められている東京・墨田区の「東京都慰霊堂」では、法要が営まれた。とメディアが伝えている。

 NHKや毎日新聞などによれば、遺族の代表らおよそ190人が参列した。

 一方、慰霊堂のすぐ隣では、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などのデマにより虐殺された朝鮮人の犠牲者を追悼する式典も行われた。
 この式典には、歴代の都知事が追悼文を寄せていたが、小池知事は9年連続で追悼文の送付を見送っている。


 「東京都慰霊堂」といえば、1948(昭和23)年から東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、1951年(昭和26年)に現在の姿となった。
 語り継ぐ戦争だから、東京大空襲の犠牲者が合祀されているというからにはお参りしなければならない。ということで、2015年8月に訪れ、お参りしている。

 都知事に選ばれた人は、なぜか、東京に大空襲の犠牲者の資料館を建築しようとはしないのは何故だろうか。
 人口が多い分、戦争の実相を伝えたくない歴史修正主義者が多いことも遠因しているかもしれない。

 原爆が投下されたヒロシマ、ナガサキ、そして、地上戦で多くの犠牲者が出た沖縄、それぞれ資料館があるというのに東京大空襲で多数の犠牲者が出ているにもかかわらず、関東大震災の犠牲者と合祀というのは納得が
いかない。

 8月2日の読売(大塚美智子記者)によれば、都戦没者霊苑(文京区春日)で戦没者の遺品を集めた「遺品展示室」の見学ツアーが開かれていると伝えていた。

 何たる偶然のことか。
 炎症性腸疾患クローン病で50代半ばを前に退職し、念願の自由を手に入れた時、通教ではあるがもう一度勉強してみようと入学し、この大学の文京区春日の理工学部校舎にスクーリングで行ったことがあり、その昼休みに近くの都戦没者霊苑に入ってみたのである。

 今思えば、霊苑で戦没者の遺品展示や語り部たちの証言を聞くことができるとは当時は全く思いもよらないことだった。

 戦没者の墓苑といえば、千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑があり、ヒロシマには原爆供養塔があり、ナガサキには長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂があり、沖縄には平和の礎がある。
 ヒロシマ、ナガサキには国立の被爆死者の慰霊施設もできている。
 資料館といえば国立しょうけい館 戦傷病者史料館、シベリア抑留と引き揚げを主とした平和祈念展示資料館を国が都に委託、ヒロシマ、ナガサキ、沖縄とそれぞれ資料館がある。
 東京大空襲・戦災資料センターが東京江東区にあって、東京大空襲をしっかり語り継いでいるが、都立というわけではないところに、東京都知事の戦争への向き合い方がわかる。
 東京都の慰霊堂はあくまでも関東大震災の犠牲者を祀る施設だから、東京大空襲の犠牲者の墓苑は、東京文京区春日にある東京都戦没者霊苑だと考えればいいということなのか。

 とにかく、A級戦犯合祀後、天皇がお参りしない靖国神社ではなく、誰でもが戦没者を悼む施設として千鳥ヶ淵の墓苑のPRが必要ではないか。

2025年09月05日

遺族会の活動 孫世代が引き継ぐ

 戦没者遺族でつくる日本遺族会(東京)の支部にあたる47都道府県遺族会のうち、4割を超える20団体が高齢化に伴う会員の減少を理由に、一部の活動を中止・縮小したことが読売新聞の調査でわかった。7団体が活動休止や解散を検討していることも判明。戦争の記憶の継承が困難になっている実態を改めて示した。と8月15日の読売が伝えていた。

 調査結果などによると、全遺族会の会員総数は、令和が始まった2019年は計約57万世帯で、今年は計約35万世帯に減った。従来の活動のうち一つでも中止・縮小したのは20団体。海外での慰霊巡拝が中止されたり、国内での遺骨収集が休止されたりした。

 日本遺族会は「結成当初、組織の中心は戦没者の父母やきょうだいの世代で、会員数が減るのは自然なことだ。遺族の記憶を伝承し、平和を希求する活動を戦後100年まで続けることを目標に掲げており、愚直に『戦争の悲惨さ、平和の尊さ』を訴え続けたい」としている。

 山形市に住む寒河江幸子さん(84)の父は先の大戦中、フィリピンで戦死した。出征は寒河江さんが物心つく前だったため、父の記憶はない。

 祖父母、母、弟との5人暮らしになった。一家の大黒柱を失い、母は河原の土砂採取や、げたの行商で懸命に働いたが、生活は苦しかった。寒河江さんが小学校に入学する時は、母が自分の着物をほどいて上着とズボンを作ってくれた。食卓に出てきた大根飯はほとんどが大根で、幼い弟は嫌がって泣いた。と毎日新聞の取材に応えている。
 寒河江さんは遺族会の集まりで同じ境遇の女性たちと話す時、心が休まるという。「『貧乏したよ』と言うと『私だって』と返してくれる。みんな苦労したから、お互いの気持ちが分かるんです」

 その山形県の遺族会に青年部ができ、活動を引き継いでいるという。


 戦争ほど矛盾に満ちたものはないのではないか。
 昭和100年、治安維持法制定から100年、特高警察が跋扈し、戦争に反対できないようにした上で、自分たちだけ武装している軍人が手柄を立てようと、満州に侵略した関東軍が起こした盧溝橋事件がアジア太平洋戦争の始まりだという説がある。
 日本の侵略を容認しない米国に対し、国力のあまりにも違いすぎることを棚上げし、米国との戦争を始めてしまった軍部。
 その軍部でも学校の勉強だけは滅茶苦茶に優秀な軍人が戦争を企図、推進する大本営に集められ、作戦を練った。
 資源を求める日本は、満州だけでなく、東南アジアにまで戦線を拡大したため、兵站を狙い撃ちする米軍の攻撃で兵士たちへの補給が途絶え、飢餓に苦しむ兵士たちが続出し、餓島と呼ばれたガダルカナル島、兵士同士が殺し合いをし、肉を食べたのではないかと推察されているレイテ島、ニューギニア、そして、白骨街道で知られるインパール作戦と敵との交戦ではなくマラリアなどの感染症や餓死者が多く出た。

 ところが、戦争の大きな矛盾として、大本営の軍人は仕出しの弁当を食べていたという説もあるし、国内では軍人たちは食べることに不自由しなかったばかりか、最前線でも、指揮官幹部たちが餓死した話は全くない。

 玉音放送後、武装解除してしまった兵士たちはシベリアに連行され、抑留され、飢餓に苦しみながら、極寒の中、伐採や鉄道建設の強制労働をさせられた。
 ソ連軍は、抑留中も日本の軍隊の階級制度をうまく利用したため、ここでも、大変だったのは兵士たちだった。

 大黒柱を召集、徴兵された家族は銃後の守りなどと呼ばれていたが、大黒柱が帰国できた家庭はまだしも、働き手が戦没してしまった寒河江幸子さんの家庭では、大根飯という「おしん」みたいな貧しさで生きていくのもやっとという有り様だった。

 戦争ではだれが何と言っても一番大変なのは親が戦没した子どもと女性たちである。
 親がいなければ、清太と節子みたいに子どもだけでは生きていくのは難しい。
 女性たちは、戦場であれ、戦後であれ戦争に敗れれば、性的暴行されることはベルリンや満州で証明されているばかりか、進駐してきた兵士たちから性的暴行される。
 基地ができれば、小学生の女児だって容赦なく米兵3人に性的暴行されている。

 こういう事実を語り伝え、戦争に反対していくのが遺族会の役割りだとすれば、遺族も孫世代につないでいくことが求められているのではないか。

2025年09月04日

沖縄米兵による12歳少女性的暴行事件から30年

 沖縄県でアメリカ軍の兵士たちによって少女が暴行された事件が起きてから、9月4日で30年。当時、沖縄では事件に対する大規模な抗議活動が行われたが、いまもなおアメリカ軍の関係者による事件は後を絶たず、県は過重な基地負担の軽減を求め続けている。と9月4日のNHKが伝えている。

 1995年9月4日、沖縄県でアメリカ軍の兵士ら3人によって少女が暴行される事件が起き、警察は逮捕状を取って3人の引き渡しを求めたが、日米地位協定を理由に拒否され、県内では事件に対する大規模な抗議活動が行われた。

 アメリカ軍は綱紀粛正と再発防止に向けて対策をとったものの、2016年には性的暴行をしようとした軍属によって20歳の女性が殺害されるなど、凶悪な事件は後を絶たない 。

 警察によれば、沖縄県内で起きたアメリカ軍の関係者による事件のうち、殺人や強盗、性暴力といった「凶悪犯」での検挙は、1995年から2024年までの間で123人に上っている。


 語り継ぐ戦争という立場で発信しているから、戦争に敗れた国の悲哀を嫌というほど考えさせられるのが米軍基地の街での米兵による性暴力事件である。
 米軍基地の7割が集中する沖縄は無論のこと、厚木、横須賀、座間そして相模総合補給廠と知る人ぞ知る米軍基地の多いのが神奈川県だ。
 人種差別の国米国は白人と有色人種のカラードピープルであるアフリカ系、ヒスパニック系、中国などアジア系との間における差別の歴史が続く。

 白人に差別されてきたアフリカ系が何とカラードピープルの日本人をジャップとして差別し、性暴力をすることに怒りを覚える。

 米軍の兵士が12歳の女児、少女を3人で性的暴行しても、戦争に敗れた日本政府は抗議もできない。
 A級戦犯が何の取引があったが不明であるが、罪に問われず、その後、60年安保を指揮している。
 郵政民営化を強行に実現した首相とその息子も米国との関係が異常に緊密である点も疑念を抱かざるをえない。
 郵政民営化で何かいいことがあっただろうか。否である。

 不平等だと指摘されながら、自民党政権は日米地位協定を改めようとすらしていない。
 米国内の基地の近くで少女に3人の兵士が性暴力したら、大騒ぎになるはずだ。
 日米地位協定に関しては、先の参議院議員選挙でれいわ新選組から伊勢崎賢治さんが国会に送られたので、不平等を改めてくれるのではないかと期待しているが、政府自民党がやる気がないからどうなることやら。

 敗戦後80年、女児米兵ら3人による性的暴行事件から30年。
 ちっとも変わらない基地の街における女性の安全。米兵が日本を守らないことが証明されているにもかかわらず、相変わらず、自民党政権は米軍が守ってくれるなどと平気で市民を騙す。
 米兵はやはり、鬼畜だったのか。

2025年09月03日

軍神とか英霊とか、死んだら帰ってこられない

 NHKが放送した「軍神と記者 特攻 封じられた本心」について語り継ぐ戦争の立場から書いておきたい。
 
 「昭和19年10月、初めて組織的に行われた特攻。口火を切ったのは愛媛県出身の関行男。“軍神”とあがめられ、その後に続くように多くの命が犠牲になった。関が“軍神”と呼ばれるきっかけとなったのは元海軍報道班員・小野田政が書いた記事。今回見つかった取材ノートや資料などから、関の言葉をありのままに伝えられなかった経緯が浮かび上がってきた。小野田の回想をドラマで再現しながら軍神と記者それぞれの『本心』に迫る。」と㏋にある。


 城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』(新潮社)を買い求めて読んだとき、特攻隊員第一号として選ばれた関行男大尉の名前を知った。
 玉音放送後の特攻として、宇佐海軍航空隊基地から沖縄方面に向けて宇垣纒海軍中将が道連れにした特攻隊の指揮官が中津留達雄大尉で、二人は海軍兵学校の同期生だったというのだ。
 何とも不思議なめぐりあわせで、その二人が最初の特攻と最後、しかも、玉音放送後の特攻の指揮官として死ななければならない運命だったとは。
 確か、二人とも結婚していたはずである。
 元海軍報道班員小野田政のことは初めて知ったが、特攻隊員を軍神と崇め奉る軍隊に協力した記者として、覚えておきたい。

 新聞はいつの時代も真実を報道をしない。
 これはスポンサーで成り立っている新聞の宿命であろうか。
 記者は偉そうなことを言っても、権力を批判できない。
 消費税率アップの時、財務省と何を取引したのか新聞は税率を上げないようにできた。

 永く購読している読売、自分が生まれれる前からだから昭和と同じくらいの年数購読していることになるはずだ。
 その新聞が、戦争の時、軍部に協力し、戦意高揚のために果たした役割は大きい。
 関行男大尉のことを軍神だとした軍に媚を売る記事は戦時中だからと言い訳しても通らない。

 自分が知る限り、関行男大尉という人物は残された写真でみるとおり、意志の強さを思わせる顔をしていて、部下の訓練にも厳しかったと耳にする。
 記憶違いでなければ、教官という立場のパイロットで、自分が特攻で行くようでは日本は負けると言った云々と耳にしたことがある。

 一方の中津留達雄大尉は同期生の関行男大尉が華々しく散華したことをニュースで知り、玉音放送も流れたから命拾いしたと思ったと推察するが、その時、上官の宇垣纒海軍中将が自決できなくて、特攻機で死にゆくお供を命ぜられるのだ。

 敗戦後、特攻隊で運よく生き残った人々が帰ってきたニュースを見た関行男大尉の母親が息子が生きていてくれたらとどんなにか願ったことかと思うと気の毒でならない。
 軍神の家に敗戦後、石を投げ込んだ不届き者がいたことが許せない。

 軍神なんて、軍隊が士気を鼓舞するために書かせたことで、靖国神社に祀り英霊とすることとちっとも変わらない。

 戦争でもなんでも、生きていてこそである。
 死んだ人間は帰ってこられない。

2025年09月02日

開発者家族と原爆、人間爆弾「桜花」

 戦後80年 昭和百年 被爆を語るということで8月31日の読売(山下佳穂記者)が原子爆弾の開発を主導し、原爆の父とされる物理学者ロバート・オッペンハイマーの孫チャールズ・オッペンハイマーさん(50)が2024年6月、被爆地ヒロシマを訪れ、被爆者小倉桂子さんと面会したことなど原爆の開発者の家族だからこその思いや非核運動などについて聞いている。

 宇佐海軍航空隊の特攻と宇佐市塾における語り継ぐ戦争を大分出身の俳優財前直見さんが紹介するドキュメンタリーについて書いたが、人間爆弾「桜花」のことを書かなかったので、書いておきたい。

 人間爆弾「桜花」の開発設計者三木忠直さんのご家族が人間の命を大事にしない兵器を開発設計して非難されていることに関し、戦後、三木さんが鉄道技術研究所に移り、飛行機の技術を鉄道の開発に生かし、東海道新幹線の流線形のデザインに応用された。
 さらには、新宿から箱根に行くとき乗る小田急線ロマンスカーの開発にも関わっていたことが明らかにされた。


 オッペンハイマーさんのことが映画化されたとき、原爆の開発者に批判的な立場だった自分は映画を観る気もしなかった。
 しかし、今となってはまたしても後悔している。
 またしてもと書いたのは、人間魚雷『回天』を映画化した『出口のない海』も主演の俳優が世間をお騒がせしていたことなどで、見逃してしまったからだ。
 こちらは語り継ぐ戦争の立場から、リバイバル上映があれば、なんとしても観ておきたいと願っている。

 記憶に間違いがなければ、陸軍登戸研究所の研究から電子レンジが生まれたと耳にしたことがある。
 陸軍登戸研究所(現明治大学平和教育登戸研究所資料館)を訪れたのは2013年10月25日の雨が降っているときだった。
 731部隊展を開催していたから語り継ぐ戦争の参考にするためである。
 戦争のために兵器その他の研究に力が入るか、カネが使われるかであろうが、どっちにしても電子レンジはどこの家庭にもある優れモノであり、生活必需品の筆頭格だと言っても過言ではない。

 優秀な研究者はオウム真理教の教祖に洗脳されたとは言いながら、サリンをつくってしまった。
 彼が道を踏み外さなければ、絶対人類に役立つ研究ができたであろうと確信するだけにもったいないことをした。

 原爆を作ることに携わっていた人物の家族が自らの祖父のこととはいえ、ヒロシマを訪れたのは佳いことだが、原爆を作り、投下された被爆者からみれば訪れただけでは納得はできないのではいか。

 三木さんはその有能さから桜花の開発から転じ、世のため人のために新幹線の開発に尽力されたことは素晴らしい。

 名誉挽回というか汚名返上というか、人間反省することは大事なことである。
 それでも、原爆投下、桜花という特攻兵器を使おうとしたことは人間の命を大事に思わない所業であり、非難に値する。

2025年09月01日

宇佐海軍航空隊基地と特攻 宇佐市塾が語り継ぐ

 終戦80年企画『財前直見 知られざる“特攻の町” 我が故郷 戦争の記憶』8月31日BSフジが放送した内容に心を揺さぶられたので書いておく。
 「玉音放送の後の8月15日夕方、大分から11機の特攻機が飛び立った。
 戦争は終わっていたのに、一体なぜなのか。
 知られざる“特攻の町”宇佐の真実を、大分出身の俳優・財前直見がひもといていく。
 当時の滑走路や掩体壕など、今も町に残る基地の痕跡。この町から出撃した若き“特攻学徒兵”が書き綴った日記と、息子を特攻へと送り出す母親の思い。
 さらに米軍の戦闘機が空襲の際に撮影していた“ガンカメラ映像”の解析に尽力する地元住民の取り組みも紹介する。
 一方、玉音放送後に飛び立った“最後の特攻隊”の真実を20年以上にわたって追い続ける女性や、米軍から「人間爆弾」と呼ばれた究極の特攻兵器「桜花」を開発した技術者の、苦悩に満ちたその後の人生を取材。
戦争を直接経験した人々が減っていく中で、当時を知らない世代が“特攻”にどう向き合い、どう語り継ぐのか。
 戦後80年の節目に、「知られざる特攻の町・宇佐」を通して、その真実を見つめ直すドキュメンタリー」と㏋にある。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で宇佐を訪れたのは2012年5月、目に青葉という新緑が印象に残る季節のことだった。
 同行してくれている家族へのサービスで、湯布院に泊まり、タクシーで耶馬渓や青の洞門を観て宇佐に行ったので、慰霊の旅としては事前の調査が不十分だったこともあったかして、時間が足りなかったが、一番の収穫は豊の国宇佐市塾平田崇英塾頭にお目にかかることができ、ご教示を受けられたことである。
 教覚寺第二十代住職ということで寺を訪ねると、慰霊の旅ということもあってのことか、歓待していただいた。
 俳優大河内伝次郎との縁や横綱双葉山、作家横光利一の出身地であることなども余談ではあるが知ることができた。
 平松守彦知事が提唱した「一村一品運動」から人材育成としてできたのが「宇佐市塾」らしいが、大分に宇佐海軍航空隊基地があったことから、塾で、語り継ぐ戦争として特攻隊のことを伝えている。
 エールをおくりたい。

 尺八の先輩が宇佐海軍航空隊基地で特攻隊が飛び立つのを帽子を振って見送ったとのことで、慰霊の旅というなら、是非、一度は宇佐にと薦められて訪ねたというわけである。

 玉音放送の後の8月15日夕方、大分から11機の特攻機が飛び立った。
 城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』(新潮文庫)を買い求めて読み、それまで全く知らなかった事実に心を激しく揺さぶられた。

 特攻隊に出撃命令をしていた宇垣纒海軍中将が部下の中津留達雄大尉に命令し、玉音放送後であるにもかかわらず、部下を道連れに沖縄方面に特攻したのである。
 命令された中津留達雄大尉は玉音放送後であることを考慮し、米軍艦船に特攻することはなかったらしい。
 縦社会の軍隊では、上官の命令となれば、部下は従わなければならないし、中津留達雄大尉と同行した特攻隊員は気の毒というしかない。
 その中津留達雄さんは大分県出身だという。

 玉音放送後の特攻に血縁者がいたことから、疑念を抱いた福島県郡山市の道脇紗知さんが、特攻隊員に手紙を送り、生存者の証言を得たことはすでに書いている。
 その道脇さんが宇佐を訪ねるのを見て、しっかり特攻隊のことが語り継がれていくことができそうで安堵した。

 戦闘機を隠す掩体壕も見学したが、全国を探しても、もう残っている掩体壕は少ないのではないか。
 
 俳優財前直見さんは大分で農業をしていると耳にしたことがある。
 著名な人が戦争を語り継ぐことで、影響力を行使してほしい。