2025年08月30日

兵士が同僚を殺し、その肉を・・・シベリア抑留

 「食糧難で兵士が同僚を殺し、その肉を…『戦争なんてするもんじゃない』シベリア抑留を経験した101歳の村山元威さんの証言」BSN新潟 NEWS & LIVE『ゆうなび』2025年6月11日放送をYouTubeで知った。
 関東軍電信第17聯隊に入隊し、満州の牡丹江で通信業務に就き、敦化で捕虜になり、「ダモイ・トウキョウ」という言葉に騙されシベリアに送られた。

 収容所は自分たちが樹木を伐採して、建築させられる。それまではテントでの生活だった。
 飢えと寒さと重労働の収容所生活で、一番つらかったのは食糧不足で、黒パン1枚とカーシャというスープだけでは生きていくのもやっとのことだった。
 最初の冬を越すのが大変で、大勢亡くなったが、脳裏に焼き付いた事件があった。
 衛生兵二人がもう一人を連れて収容所を脱走した。二人が誘った男を殺して食料にするため尻の肉を削ぎ落したというのだ。
 二人は捕まり、銃殺刑で処刑され、3人は収容所前に晒された。
 皆で歌を歌ったり、木のスプーンを作るなど4年間を耐え、49年8月、25歳で帰国した。

 東京羽村の石田文司さん(2024年100歳で死去)の遺品から、抑留時の衣服が見つかったが、服の裏には別人の名前が記されていた。と8月27日の読売(鈴木章功記者)が戦後80年の語り継ぐ戦争で伝えている。
 寒さから逃れるため、死んだ仲間の衣服を脱がせて、身に着けていたというのだ。


 大岡昇平『野火』を原作に塚本晋也監督が映像化した『野火』を観たとき、飢餓に苦しむ兵隊がサルの肉だと称して兵隊を殺してその肉を…。というシーンが出てくる。

 シベリア抑留では以前、耳にしたことがあるが、人間生きるためなら、なんでもする。
 本来タブーであるはずの人間の肉に目を付けた兵隊は弱い兵隊を殺して共食いしてしまうのだ。
 戦地で女性に平然と性暴力を加える兵隊は生き残り、そんなことはできないし、やるつもりがない知識人の梶は生き残れないのだ。

 作家五木寛之さんは、読売で証言していたことがある、満州や朝鮮半島から引き揚げてきた人たちは悪人だと自らのことを自重しながら語っている。
 他人を蹴落としてでも、列車に乗り、トラックに乗り、引き揚げ船に乗らなければ帰ってこられなかったからだ。当然、食べるものがなければ、奪ってでも、盗んででも手に入れなければ生きられなかった。

 アジア太平洋戦争では、戦没者と言っても、実相は砲弾や銃弾で殺された人と較べ、飢餓、マラリア、発疹チフスなどの感染症で亡くなった人が多かった。
 餓島と呼ばれたガダルカナル島、白骨街道と呼ばれたインパール作戦、ニューギニアそして野火のレイテ島などが知られているが、1945年8月9日未明のソ連軍の侵攻で逃避行を続けることになる満蒙開拓団や戦後、シベリアに連行され、抑留された人たちも飢餓を経験している。

 団塊の世代の一員である自分は本当の意味での飢餓など経験したことがないから、食べられなくなったらどうなるか想像するだけである。
 金一族だけが富を独り占めし、首領だけが太っている北朝鮮では脱北を描いた『クロッシング』では貧しい民が愛犬を殺して食べるシーンがあった。

 『火垂るの墓』の清太と節子などの孤児は生きていくのがやっとだった。
 戦後の食糧難の時代、買い出しに出た女性たちは着物などで代金を支払ったらしいが、想像するに体で代金を支払わされた女性だっていたはずである。
 食べるものを手に入れるためなら、貞操などと言ってられないからだ。

 飢餓はつらいだろうと思うのは、シベリア抑留で黒パンを切り分けるときの様子をジオラマが見せてくれたのは舞鶴の引揚記念館だったか東京新宿の平和祈念展示資料館だったか。
 いつ殺し合いが起きても不思議ではないほどの迫力だった。
 人間が人の心を捨て去るのも飢餓では当然のことだとしか思えない。