語り継ぐ戦争で、樺太の真岡の郵便局でソ連兵からの性暴力を恐れた電話交換手9人が青酸カリで集団自決し、戦後80年の慰霊祭が8月20日稚内で行われたことを書いている。
同じ樺太では、終戦二日後の8月17日、恵須取にあった太平炭鉱病院で働いていた看護師23人がソ連兵からの性暴力を恐れ、集団自決し、6人が亡くなった。
鎮魂と石に刻まれた慰霊碑が札幌護国神社にあり、慰霊祭が行われている。と2022年8月17日のHBC放送が伝えていた。
終戦翌日の16日未明、ソビエト軍は恵須取を爆撃。看護師たちは運び込まれるけが人の手当を続け、避難したのは夕方だった。
生き残った副看護師長鳴海寿美さんの手記 「患者さんの枕元に治療薬を配置し、再会を約束して壕を出、追い立てられるように神社の山へ登ったのです」
夜の10時ごろ、ソビエト軍が近くまで迫り、行く手が阻まれたということで、いよいよの時が来たと覚悟を決めた。普段から、命より貞操を守れと教育されていたこともあった。
毎日書き続け、発信しているのは「自由のため」である。
自由を奪われた人の筆頭に戦没者が頭に浮かび、次いで、戦火の渦中における自由と尊厳を奪われる性暴力の被害者のことが戦争における性被害ということで書いておかなければならない大事なことだと考えるに至った。
樺太では9人の電話交換手、6人の看護師が集団自決で亡くなっている。
彼女たちはソ連兵に性暴力されたわけではないにもかかわらず、集団自決を選択してしまったのは、やはり、当時の日本の教育の結果ではないか。
戦時中の性暴力被害としては、先般観ている『黒川の女たち』で、性暴力被害者として初めてといってもいいであろうが名乗りを上げたことが注目されることになった。
ソ連兵や中国人などからの略奪、性暴力から開拓団員を守ってもらうためにソ連軍将校を恃むことにし、その見返りとして、15人の娘たちが性奴隷として差し出された。
性被害は2か月ほど続いたが、梅毒などで亡くなった5人を除いて、多くの開拓団員が引き揚げて来られたのは彼女たちの犠牲のお陰である。
戦時中の一番悲惨な性暴力事件は敦化事件(日満パルプ事件)として語り継がれている1945年8月27日に起きたソ連兵による社宅での日本人女性集団性暴力事件である。
ソ連兵による性暴力が連日続き、ついに、被害者の女性たちが集団自決した凄惨な性暴力事件である。
語り継ぐ戦争ではあるが、あまりにも凄惨な事件なので、書くのを躊躇っていたが、一度はきちんと書かなければならないとは考えていた。
戦争における性暴力はどこの軍隊でも起こしているが、一番酷かったのがソ連軍兵士だったと断言できる。
日本兵も性暴力の加害者としては酷いものだったが、ソ連兵は衆人環視、つまり、電車内であろうが、道路であろうが、機関銃を手にして、性暴力をしたので、止めることができなかった。
止めれば、撃ち殺されてしまうからだ。
樺太の電話交換手、看護師、満蒙開拓団の女性とソ連兵からの性暴力から逃れようと集団自決を選択しているが、後期高齢者となってしまった自分としては、黒川開拓団の性奴隷とされた女性たちのように生き延びた女性たちの凄みに感心するばかりである。
貞操観念は教育されたことであるにしても、恥を忍んでも生きる方が困難であり、勇気があるような気がしてならない。