終戦を告げる1945年8月15日の玉音放送の後、当時21歳の大木正夫・上等飛行兵曹は「宇垣特攻」の一員として出撃し、戦死した。
子孫にあたる道脇紗知子さん(46)は、大木について調べるうち、共に戦火の時代を生きた元海軍軍人に出会った。と8月7日の読売(編集委員森太)が夕刊で伝えている。
宇垣特攻とは宇垣纒中将が玉音放送の5時間後、艦上爆撃機{彗星)11機にて隊員22人を率いて沖縄に向かった特攻。宇垣を含め18人が死亡した。偵察員だった大木は後席にいた。
「1人で死ねよ!」と叫んだ部下もいたらしい。部下を道連れにした身勝手な特攻だった。
道脇さんは、防衛研究所や軍事関係の書籍を手がける出版社に通い、元特攻隊員らを紹介してもらい、片っ端から手紙を書き、訪ね歩いた。
直接知る人に出会えないまま、2007年に自著『8月15日の特攻隊員』を出版した。
翌年、大木さんと海軍予科練で「竹馬の友」だった神馬文男さん(99)(札幌市)からはがきが届き、大木さんの話を聞くことができた。
神馬さんは1945年8月10日、乗っていた偵察機が日本海に墜落し、漂流した後、九死に一生を得た。
敗戦後は、シベリアの収容所に送られ、炭鉱労働や森林伐採の抑留生活。47年8月に帰国。
道脇さんのことを「戦争をよく調べ、本を書き、伝えてくれる行動力を尊敬している。それが死んだ大木を生かすことになる」と話す。
城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』(新潮文庫)を買い求めて読んでいるので、宇垣特攻のことは知っていた。
中津留達雄達雄大尉が宇垣纒中将からの命令で、玉音放送後に指揮、出撃した宇垣特攻を知るには、まずこの本が参考になる。
兵学校の同期、関行男大尉がレイテ沖海戦で特攻一号として死に、玉音放送後、中津留達雄大尉が宇垣特攻の指揮官として死ぬのだ。
大木さんのことが書かれていたかどうか記憶にないが、道連れ特攻として知られる宇垣特攻で死んだ人は浮かばれない。
「1人で死ね!」と叫びたい気持ちを理解する。
特攻隊の創始者として、部下を死なせた責任を取って、8月16日に割腹自決をした大西瀧治郎中将の方がはるかに立派だ。聞くところによれば、介錯を拒否し、長く苦しみながら死んでいったという。
大木さんの子孫道脇紗知子さんにはエールをおくりたい。
元特攻隊員を探した情熱には頭が下がる。ここまでなかなかできない。
本を刊行したことも評価するが、子孫として先祖の玉音放送後の特攻について調べようとする姿勢が尊敬できる。
宇垣特攻は軍人幹部の身勝手さが証明される事件ではある。
文春オンラインによれば、第三航空艦隊長官の寺岡謹平中将は8月15日、指揮下の残存航空機すべてに対し、関東沖の米機動部隊に対する特攻を命じた。この日、木更津から出撃した神風特別攻撃隊第七御盾隊第四次流星隊の「流星」艦爆2機のうち1機を操縦していた小瀬本國雄飛行兵曹長によれば、寺岡長官は、「攻撃目標は、房総沖の敵機動部隊である。諸氏の必中を祈る」と訓示し、「君たちだけを死なせはしない、私も必ず後から行く」と明言した。
戦後もおめおめと生き残った汚い奴、うそつき。
軍人なんてこんなもので、こんな奴の命令で死んだ人間は浮かばれない。