2025年08月11日

原子雲の下を生き抜いて

 NHKアーカイブス NHKスペシャル 「長崎の子・映像の記憶〜原子雲の下に生きて〜」を視聴することができたので書いておく。

 「被爆直後から、日米両国のカメラマンによって映像で記録され続けてきた、長崎の子どもたち。原爆に傷つき、家族を失った彼らは、その後アメリカによる放射能被害の調査の対象とされた。さらに、社会の偏見や、子や孫への遺伝の不安の中で戦後を生きてきた。原爆によって幾重にも傷つけられ続けた子どもたちの真実を描いたドキュメンタリー。」と㏋にある。

 
 被爆80年目の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、福山雅治のクスノキを城山小学校と山里小学校の児童が一緒に歌った。
 ナガサキを訪れたのは2009年8月のことで、一度しか行くことができていないので、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚としては知らないことの方が多い。
 爆心地から最も近い城山小学校が米国の原爆投下で被害に遭ったことは知っていたが、被爆クスノキやクスノキが歌になっていることや山里小学校のことは恥ずかしながら知らなかった。

 県営の平和祈念公園の原爆資料館から下りながら、浦上天主堂を訪れたら、休館日で見学できなかったが、爆心地から最も近かった西に500bの城山小学校では、児童約1500人中、1400人が、北へ約700bの山里小学校では児童1581人中、約1300人がそれぞれ亡くなっているといわれている。


 NHKが放送してくれたヒロシマで爆心地から半径500b内で奇跡的に生き延びた78人の証言について書いたが、「原子雲の下を生きて」は、爆心地から北へ約700bの山里小学校に在籍していた児童の証言を集め、後年の人生を取材し、伝えていたもので、被爆者の辛い、過酷な人生は予想を遥かに超えていた。

 親を亡くし、親族に育てられた女性が自身のレイプ体験を語り、被爆者に対する周囲の差別が犯罪被害者となってもあったことを伝えていた。
 顔の半分にケロイドが残っていた男性は、子どもが小さい頃、そのことを聞かれ、自身ではどうすることもできないケロイドを負った身を、早く天国の指定席に行きたいと、被爆者が生き抜くことの大変さを語っていた。
 被爆体験を学校で語っていた女性は、生徒たちに何があっても生き抜いていかなければならないと諭していたが、実は妹が被爆者として、生きることに耐えられず、自死を選んでいたことが後でわかるのだった。

 浦上天主堂が近いロケーションの地だからか、基督教というのか、カトリックというのか、墓参りした時、十字架が墓標だったことに驚かされた。

 ヒロシマの78人の証言といい、ナガサキの山里小学校の児童の証言といい、生き延びた人たちの証言は貴重である。
 どう考えても、爆心地から半径500b以内で生き延びることは不可能だし、爆心地から北へ約700bの山里小学校は夏休みだったから、児童は学校で被爆したわけでないにしても、通学エリアだから、近いことに変わりはない。

 戦後80年のヒロシマ、ナガサキでの原爆慰霊祭が終わったが、戦後生まれの団塊の世代の一員としては、自分の人生が残り少ないと自覚しているからか、被爆しても生き延びてきた人たちに敬意を表する気持ちが増している。
 そう、生きていくのは大変なことで、まして、被爆者という重い荷物を背負わされて生きて来られた人たちのことを思えば、なんとしても、戦争に巻き込まれてはならないし、核兵器を使われてはならない。

 戦後80年の参議院議員選挙で、極右の参政党が台頭していることに恐怖を覚える。
 天皇主権、基本的人権より国家主義、教育勅語、治安維持法、徴兵制と戦前の日本軍と同じ考えだということが分かった以上、なんとしても、これ以上の台頭を許さないために、非戦のれいわ新選組を応援し、戦争にならないようにしていかなければならない。