2025年08月11日

原子雲の下を生き抜いて

 NHKアーカイブス NHKスペシャル 「長崎の子・映像の記憶〜原子雲の下に生きて〜」を視聴することができたので書いておく。

 「被爆直後から、日米両国のカメラマンによって映像で記録され続けてきた、長崎の子どもたち。原爆に傷つき、家族を失った彼らは、その後アメリカによる放射能被害の調査の対象とされた。さらに、社会の偏見や、子や孫への遺伝の不安の中で戦後を生きてきた。原爆によって幾重にも傷つけられ続けた子どもたちの真実を描いたドキュメンタリー。」と㏋にある。

 
 被爆80年目の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、福山雅治のクスノキを城山小学校と山里小学校の児童が一緒に歌った。
 ナガサキを訪れたのは2009年8月のことで、一度しか行くことができていないので、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚としては知らないことの方が多い。
 爆心地から最も近い城山小学校が米国の原爆投下で被害に遭ったことは知っていたが、被爆クスノキやクスノキが歌になっていることや山里小学校のことは恥ずかしながら知らなかった。

 県営の平和祈念公園の原爆資料館から下りながら、浦上天主堂を訪れたら、休館日で見学できなかったが、爆心地から最も近かった西に500bの城山小学校では、児童約1500人中、1400人が、北へ約700bの山里小学校では児童1581人中、約1300人がそれぞれ亡くなっているといわれている。


 NHKが放送してくれたヒロシマで爆心地から半径500b内で奇跡的に生き延びた78人の証言について書いたが、「原子雲の下を生きて」は、爆心地から北へ約700bの山里小学校に在籍していた児童の証言を集め、後年の人生を取材し、伝えていたもので、被爆者の辛い、過酷な人生は予想を遥かに超えていた。

 親を亡くし、親族に育てられた女性が自身のレイプ体験を語り、被爆者に対する周囲の差別が犯罪被害者となってもあったことを伝えていた。
 顔の半分にケロイドが残っていた男性は、子どもが小さい頃、そのことを聞かれ、自身ではどうすることもできないケロイドを負った身を、早く天国の指定席に行きたいと、被爆者が生き抜くことの大変さを語っていた。
 被爆体験を学校で語っていた女性は、生徒たちに何があっても生き抜いていかなければならないと諭していたが、実は妹が被爆者として、生きることに耐えられず、自死を選んでいたことが後でわかるのだった。

 浦上天主堂が近いロケーションの地だからか、基督教というのか、カトリックというのか、墓参りした時、十字架が墓標だったことに驚かされた。

 ヒロシマの78人の証言といい、ナガサキの山里小学校の児童の証言といい、生き延びた人たちの証言は貴重である。
 どう考えても、爆心地から半径500b以内で生き延びることは不可能だし、爆心地から北へ約700bの山里小学校は夏休みだったから、児童は学校で被爆したわけでないにしても、通学エリアだから、近いことに変わりはない。

 戦後80年のヒロシマ、ナガサキでの原爆慰霊祭が終わったが、戦後生まれの団塊の世代の一員としては、自分の人生が残り少ないと自覚しているからか、被爆しても生き延びてきた人たちに敬意を表する気持ちが増している。
 そう、生きていくのは大変なことで、まして、被爆者という重い荷物を背負わされて生きて来られた人たちのことを思えば、なんとしても、戦争に巻き込まれてはならないし、核兵器を使われてはならない。

 戦後80年の参議院議員選挙で、極右の参政党が台頭していることに恐怖を覚える。
 天皇主権、基本的人権より国家主義、教育勅語、治安維持法、徴兵制と戦前の日本軍と同じ考えだということが分かった以上、なんとしても、これ以上の台頭を許さないために、非戦のれいわ新選組を応援し、戦争にならないようにしていかなければならない。

2025年08月10日

爆心地から半径500b内、奇跡的に生き延びた78人の証言

 NHKスペシャル戦後80年「広島グラウンドゼロ 爆心地500m 生存者たちの“原爆”」を視聴し、激しく心を揺さぶられたので書いておく。

 「原爆の炸裂で、史上最悪の“死のゾーン”となった爆心地=グラウンドゼロ。広島で半径500m以内にいながら、奇跡的に生き延びた78人がいた。あの日、彼らは何を体験したか、そして戦後をどう生きたか。彼らが語った110時間に及ぶ証言テープが残されていた。刻まれていたのは、78人しか語ることができない爆心地の衝撃的な光景。最新科学で検証・映像化。そこから浮かび上がった核兵器がもたらした“極限の真実”とは―。」と㏋にある。

 
 8月9日、午前11時2分、ナガサキへの米軍による原爆投下で犠牲となった人たちに黙とうを捧げた。
 10日にはナガサキの原爆関連で書くべきところだが、どうしても書いておきたいことがある。
 
 同じ被爆地ヒロシマで爆心地から半径500b以内にいながら、奇跡的に生き延びた78人がいて、彼らが体験した被爆の実相、目撃したものを最新科学、CGというのかで検証、映像化しているのを視聴して、被爆の恐ろしさに激しく心を揺さぶられた。

 爆心地から半径500b以内といえば、普通なら生き延びられないはずだが、78人には、運があったのか、幸いにも生き延びることができた。
 その証言は、いずれも被爆の実相を物語るもので、そのあまりにも悲惨さに気持ちが、溟い海に引き込まれそうになってしまった。
 例えば、銀行の石段に残る「人影の石」はあまりにも有名だが、すぐ近くのコンクリートの建物に守られ、、耳が溶けたというか取れてしまうも生き延びた男性がいた。
 モンペなどの衣類が高熱で肌に焼き付いてしまうとか、考えられないことが起きている。
 苦しまないで被爆死してしまえば、まだしも、死ぬまでに苦しみ抜き、「水をくれ」とうめきながら、死んでいった被爆者の様子を伝える証言には、この世の地獄としか思えず、いくら米国が人種差別の国だから、ゲルマン民族のドイツには原爆を落とさず、カラードピープルでイエロージャップとバカにしてた日本だから原爆を投下、しかも、ヒロシマ、ナガサキと2回もだというのだから自分は米国政府を赦せず、反米だと立場を明らかにしている。

 しかしながら、原爆投下から80年経ってしまったことを思えば、前を見て生きるしか術がない。
 と考えれば、貴重な証言を残してくれた78人の証言を一人でも多くの世界の人々に語り継ぐことで、核兵器の恐ろしさを訴えることができるはずだ。

 先般、観ている『黒川の女たち』で開拓団をソ連兵や中国人などからの略奪、性暴力から守って貰うために、ソ連軍の将校たちに助けを求め、その代償に性奴隷として差し出された開拓団の未婚の女性たち15人のうち、事実関係を証言した女性のことを取り上げていた。

 満州(現中国東北部)や朝鮮半島で、ソ連兵や中国人や朝鮮人などから性暴力をされた女性は多いが、目撃証言はあるものの被害者自らが証言したものはほとんどない。
 だから、性暴力の被害者が証言した黒川開拓団の女性の証言は貴重である。

 同じように、爆心地から半径500b以内で助かった人たちが目撃した被爆者の実相は極めて価値が高い。

 ヒロシマ、ナガサキと原爆資料館があって、ここに行けば、被爆の実相が理解できるようになっているが、NHKが放送してくれた証言+CGはTVの前に自分がいることを忘れさせ、現地にいるかの様な臨場感がある。
 この証言を平和のために有効に活用してもらいたい。

 8月4日の読売(小松大騎記者)夕刊によれば、爆心地から500b以内で被爆した近距離被爆者の生存者は爆心地から460bで被爆した友田典弘さん(89)だけになり、母校などで被爆について語っている。 

2025年08月09日

原爆供養塔納骨者の名前を読み上げる

 曽祖父2人が被爆者で、広島市出身の高垣慶太さん(23)(東京都)は6日午前、平和記念公園内の原爆供養塔前で、引き取り手がいないまま塔に納められた遺骨812人の名前を、仲間ら約30人と約2時間かけて一人ずつ読み上げた。「原爆で犠牲になった一人ひとりの命の重みを受け止めてほしい」との願いからだ。と8月6日の読売が伝えている。

 曽祖父2人はそれぞれ、広島と長崎で被爆した。幼い頃に祖父母から聞き、生まれる前に亡くなった2人が被爆者だったとわかってはいたが、詳しいことは知らなかった。

 広島と長崎で開業医だった二人は、「男女の見分けがつかないけが人らを治療した」と語っていた。

 進学した崇徳高校で新聞部に入部し、多くの被爆者らに取材をした。3年生だった2020年には被爆75年の特集を企画。同校の前身である旧制崇徳中で、学徒動員中に犠牲となった生徒全512人の住所と学年を掲載した。「戦争で同世代の若者が多数、命を絶たれた事実を知ってもらいたかった」

 2025年6月23日、「慰霊の日」に合わせて沖縄に行き、「平和の礎 」に刻銘された24万人余りの沖縄戦戦没者らの名前を読み上げる集いを見学した。数字で表現されることが多い犠牲者一人ひとりの人生が、戦争によって失われたことを実感した。「広島でもやってみては」と勧められた。

 原爆供養塔には約7万人の遺骨が眠り、「ヒロシマの墓」と呼ばれる。遺骨の中には身元不明のもの以外に、名前はわかるが引き取り手のない812柱があり、広島市のホームページで名簿が公表されていた。「犠牲者の数だけ悲しみがあったことや平和の尊さを考える機会になれば」と、読み上げの集いを計画した。

 供養塔を管理する団体の代表で、胎内被爆者の畑口実さん(79)も「若者の力で供養塔の存在が広く伝えられるのはありがたい」と後押ししてくれた。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、地上戦で住民の多くに犠牲者が出た沖縄を訪れたとき、感心、感動したのは平和祈念公園にある沖縄戦の戦没者、死没者の敵味方、民族という違いを乗り越え犠牲者の名前を慰霊碑「平和の礎」に刻銘していることだった。

 一般的に、敵の戦没者、死没者を祀るという考え方に行き着くには関係者に互いに戦争の犠牲者だという意識がなければありえないことである。

 沖縄県民はそもそも本土の人間から差別され、沖縄戦では本土の防波堤とされ、米軍の本土攻撃の時間稼ぎとされたため、守備隊32軍が南部に逃亡する際、軍民混在であったため、県民の犠牲者が滅茶苦茶に増えた。
 しかも、県民だけなら、米軍は降参すれば、命は助けてくれたが、日本軍は沖縄県民を盾にしたため、ガマに隠れて、米軍に投降しようとすれば、県民は日本軍に後ろから撃たれて殺された。
 ガマで赤子が泣けば、殺せと日本軍兵士に命令された。
 日本軍は県民を守る意識は全くなかったと言わざるをえない。
 満蒙開拓団の人たちが棄民として関東軍に見捨てられたのと同じことである。

 沖縄県民が立派だったのは、自分たちを守らず、道連れにした日本軍、鉄の暴風と呼ばれる艦砲射撃に守られて上陸するや、火炎放射器で情け容赦なくガマに隠れていた県民と日本軍兵士を焼き殺した米軍兵士にも、戦争が終わり、ノーサイドとなってからは恨み言を言うでなし、慰霊碑に刻銘し、死者を祀っているのである。

 さらに、沖縄県民の偉大さは、刻銘された24万有余の戦没者、死没者の名前を読み上げることで、犠牲者一人ひとりの人生に寄り添っていることだ。

 このことに触発された高垣慶太さんが原爆供養塔で引き取り手がいないまま塔に納められた遺骨812人の名前を読み上げたのは、協力した人たちも含め素晴らしい試みだった。
 エールをおくりたい。

 先の大戦後にソ連、モンゴルに抑留され、死亡した人々の名前を読み上げる追悼行事が、2024年8月23日から4日間、オンラインで行われることを以前書いている。
 8歳の小学3年生から、90歳代の抑留経験者まで約100人がこの行事に参加する。帰国を夢見ながら、異郷の地で無念の最期を迎えた人々のうち、4万6655人の氏名が読み上げられる。

 ミッドウェー海戦で敵味方なく犠牲となった人たちの名前を調べ上げた作家澤地久枝さん。
 シベリア抑留死亡者名簿を綴った村山常雄さん。
 旧ソ連・モンゴルでの抑留の死亡者5万5000人のうち、約1万5000人の身元が特定されていないことに対し、読売新聞記者として、命を賭してこの問題に取り組んだのが井手裕彦さん。
 国際政治学者で多摩大准教授小林昭菜さん(42)が日本人捕虜の数を61万T237人とロシアでの調査の結果で調べあげている。

 「生きているだけで価値がある」と個人の尊厳を訴えるれいわ新選組の山本太郎代表。日本国憲法の看板である国民主権、基本的人権より、天皇主権、国家主義の極右政党参政党が勢力を伸ばした参議院議員選挙。

 高垣慶太さんが米軍の原爆投下で犠牲となった原爆供養塔に納骨されている人たちに思いを寄せていることを知り、戦没、死没者の一人ひとりの名前、人生にこだわった先人たちのことを思いつくままに挙げてみた。

 一人の命を大切にしなかった戦前、戦中の日本。
 敗戦で手に入れた命の大切さを取り戻したからには、二度と命が粗末にされない社会でなければならない。

2025年08月08日

平和記念式典で石破首相に教えられた歌人の歌

 「『太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり』。公園前の緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれた、歌人・正田篠枝さんの歌を、万感の思いを持ってかみしめ、追悼の辞といたします。」
 1945年8月6日、米軍によってヒロシマに原爆が投下されてから80年の平和記念式典での石破首相のあいさつの結びで引用された歌人正田篠枝さんの歌である。

 2009年11月、2015年4月の2回平和記念公園を訪れているが、感性が鈍ってしまったのか石破首相に教えられるまで「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」のことは知らなかった。

 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚ではあるが、ヒロシマ、ナガサキそして地上戦の沖縄には慰霊碑がたくさんあって、名の知られた場所は知っていても、慰霊碑の存在のうち、その多くの名前や場所は知らない。

 参議院議員議員選挙で極右の参政党が台頭し、自民党の支持者でも右寄りの人や党の実態をよく知らないまま投票した人が多かったことに怖ろしくなってしまった。
 
 参議院議員選挙では、非戦のれいわ新選組から、安全保障問題のエキスパートである伊勢崎賢治さんが当選。毒蝮三太夫に似ているので親しみを込めて、れいわ新選組の毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんと紹介してきた。

 伊勢崎さんは石破首相とは旧知の間柄ということで、石破首相が非戦の人だとわかった。
 選挙後、石破首相をやめさせようとする自民党の裏金議員などからの圧力が強くなっている時だから、石破首相に辞めないで頑張れという有権者からの声もたくさん寄せられている。

 ヒロシマの平和祈念式典での首相のあいさつで心を動かされたことはほとんど記憶にない。
 しかし、戦後80年の式典でのあいさつで、国民学校の教師と子どもたちのことを歌った歌人・正田篠枝さんの歌が引用されたことで、石破首相の非戦の思いが伝わり、心を揺さぶられた。

 戦争に反対、特に、米軍の代わりに自衛隊を中国と戦わせようと企図する米国の思惑に乗せられないように伊勢崎さんと石破首相の行動を見つめながら、平和を訴えている自分としては、石破首相を応援している。

 靖国神社にばかり行きたがる自民党の女性議員が首相の座を狙っていると伝えられているので、非戦でない人の総理はみたくない。

 戦争で、一番の犠牲者となるのは弱い立場の子どもたちと教師たちだから、このことが分かっている総理なら、何とか戦争にならないように頑張ってくれるのではないかと期待している。

 8月6日、朝8時15分、原爆犠牲者に黙とうを捧げ、『木の上の軍隊』を観て、非戦の思いを強くしてきた。

 被爆者がだんだん退場していくが、なんとしても、戦争にまきこまれてはならない。

2025年08月07日

『木の上の軍隊』

 月に一度の映画館行き、8月は平一紘監督、堤真一、山田裕貴ダブル主演『木の上の軍隊』を観てきた。

 1945年4月16日、米軍が上陸した沖縄慶良間諸島伊江島を舞台に日本軍守備隊32軍との6日間の攻防の末、伊江島は米軍の占領下に置かれた。
 米軍上陸を前に、島では滑走路を建設する突貫工事が行われていたが、米軍上陸で米軍に滑走路を使われまいと滑走路が爆破された。
 圧倒的な戦力差で上陸してきた米軍は守備隊などものともせず、蹴散らして六日間で島を占領してしまう。

 殺される寸前で、ガジュマルの大樹の上に身を隠した沖縄出身の新兵安慶名セイジュンと上官の将校山下は木の上を根城に2年間も生き延びるのだった。

 佐次田秀順さんと山口静雄さん二人がモデルとなった実話を基に劇作家井上ひさしの原案の舞台劇を映画化した作品である。

 沖縄戦は圧倒的な戦力差の戦いで、「生きて虜囚の辱めを受けず」と捕虜になることを禁じられた兵士ではなく、捕虜になると米兵に酷いことをされると洗脳されていた住民たちの中に集団自決をした人たちがいた。

 集団自決といえば、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2016年8月に慶良間諸島渡嘉敷島を訪れ、集団自決の場所でお参りしている。
 座間味島、渡嘉敷島そして伊江島とどこに行くか迷ったが渡嘉敷島にした。
 集団自決といえば、読谷村のチビチリガマにも行き、犠牲者のご冥福を祈っている。

 戦後、グアム島から横井正一さんが、ルバング島から小野田寛郎さんが帰国を果たし、戦後80年の今となっては、よく死なないで生きていたものだと感心しきりである。
 東南アジアなどでは残留日本兵を欧州の植民地からの独立運動に引き入れようとしたという話を耳にしたことがある。

 伊江島でガジュマルの樹上で生き延びた二人が飢餓にさぞや苦しめられたことだろうと思ったら、進駐してきた米軍の捨てた食料、缶詰などを食していたことを知り、サバイバルとは、敵の食料を頂戴することも有りかと感嘆した。

 『父と暮らせば』の井上ひさしさんだから、安慶名が天に召された母親と親友与那嶺とが親しく会話するシーンで、劇作家はこの世とあの世の行き来が自由自在であることの素晴らしを教えてくれた。

 戦争では何としても生き残らなければダメで、ために、大いに参考になる話だった。

2025年08月06日

被爆クスノキ

 8月5日のNHKクローズアップ現代「“我が魂は奪われはしない” 福山雅治 響き合う歌と平和」を視聴できたので書いておく。「自分の歌を子どもたちが合唱するなんて、一番驚いているのは僕自身」。福山さんがそう語る「クスノキ」は2014年の発表以来、「平和の歌」として多くの人に歌い継がれ、学校の授業でも使われている。原爆で焼かれても再び芽吹き、希望や平和の象徴となった「被爆クスノキ」と長年向き合って曲が完成するまでの誕生秘話。いまだ世界では核の脅威が去らず暴力の連鎖が続く中、「歌の力」でメッセージを届けることの意味を聞く」と㏋にある。


 恥ずかしながら「被爆クスノキ」のことも歌のことも知らなかった。
 8月6日、本日は人種差別の国米国によってヒロシマに原爆が投下された日で、被爆アオギリのことは知っていた。被爆アオギリが歌になっているかどうかわからないが、平和への願いをナガサキで被爆クスノキに託した福山雅治さんはアーティストとして語り継がれることになるだろう。

 クスノキといえば、生まれ育った首都圏の田舎町の寺で、せっかくのクスノキを伐採してしまい落胆していた。世の常ではあるが関わる人間によって、こうも違う結果が出ることにショックを受けている。
 住宅開発で伐採されてしまうところを寺が受け入れて、寺のシンボルツリーになるところだった。
 持ち込んだ寺の世話人と受け入れた寺側の世話人との間で何があったのか不明であるが、何があったにしても、クスノキに罪があるわけでなし、地球温暖化を防止するために役立つクスノキを伐採するとは非道なことをするものだ。

 今夏、雨が降らず、毎日、体温を超えるような厳しい暑さが続いている時、クスノキの下にいれば、木陰で涼しいし、風があれば、クスノキが涼風を送ってくれた。
 ついでに書くなら、寺の境内で春になると見事に咲き誇った桜も伐採してしまった。
 民主主義の時代だから、寺で世話人がクスノキや桜を伐採しようがしまいが余計な口出しはできない。

 被爆地ナガサキといえば、著名人ですぐに名前が出てくるのは美輪明宏さんだが、世代交代したとしても、被爆クスノキと福山雅治さんがいる。

 本日、被爆の犠牲者に黙とうをささげたヒロシマでは、すぐに名前が出てくるのは被爆アオギリとプロ野球の張本勲さんであるが、世代交代した人の名前がでてこない。

 「長崎の鐘」、「クスノキ」とナガサキは歌で語り継がれていくが、ヒロシマでは、「夏の花」の原民喜、「はだしのゲン」の中沢啓治、そして『夢千代日記』の早坂暁と小説や漫画、ドラマなどで語り継がれていくのかもしれない。

クスノキ

 8月5日のNHKクローズアップ現代「“我が魂は奪われはしない” 福山雅治 響き合う歌と平和」を視聴できたので書いておく。「自分の歌を子どもたちが合唱するなんて、一番驚いているのは僕自身」。福山さんがそう語る「クスノキ」は2014年の発表以来、「平和の歌」として多くの人に歌い継がれ、学校の授業でも使われている。原爆で焼かれても再び芽吹き、希望や平和の象徴となった「被爆クスノキ」と長年向き合って曲が完成するまでの誕生秘話。いまだ世界では核の脅威が去らず暴力の連鎖が続く中、「歌の力」でメッセージを届けることの意味を聞く。」と㏋にある。


 恥ずかしながら「被爆クスノキ」のことも歌のことも知らなかった。
 8月6日、本日は人種差別の国米国によってヒロシマに原爆が投下された日で、被爆アオギリのことは知っていた。被爆アオギリが歌になっているかどうかわからないが、平和への願いを被爆クスノキに託した福山雅治さんはアーティストとして語り継がれることになるだろう。

 クスノキといえば、生まれ育った首都圏の田舎町の寺で、せっかくのクスノキを伐採してしまい、落胆していたので、世の常ではあるが、関わる人間によって、こうも違う結果が出ることにショックを受けている。
 住宅開発で伐採されてしまうところを寺が受け入れて、寺のシンボルツリーになるところだった。
 持ち込んだ寺の世話人と受け入れた寺側の世話人に何があったのか、不明であるが、何があったにしても、クスノキに罪があるわけでなし、地球温暖化を防止するために役立つクスノキを伐採するとは非道なことをするものだ。

 今夏、雨が降らず、毎日、体温を超えるような厳しい暑さが続いている時、クスノキの下にいれば、木陰で涼しいし、風があれば、クスノキが涼風を送ってくれた。
 ついでに書くなら、寺の境内で春になると見事に咲き誇った桜も伐採してしまった。
 民主主義の時代だから、寺で世話人がクスノキや桜を伐採しようがしまいが余計な口出しはできない。

 被爆地ナガサキといえば、著名人ですぐに名前が出てくるのは美輪明宏さんだが、世代交代したとしても、被爆のクスノキと福山雅治さんがいる。

 本日、被爆の犠牲者に黙とうをささげたヒロシマでは、すぐに名前が出てくるのはプロ野球の張本勲さんであるが、世代交代した人の名前がでてこない。

 「長崎の鐘」、「クスノキ」とナガサキは歌で語り継がれていくが、ヒロシマでは、「夏の花」の原民喜、「はだしのゲン」の中沢啓治、そして『夢千代日記』の早坂暁と小説や漫画、ドラマなどで語り継がれていくのかもしれない。

2025年08月05日

ヒロシマ原爆の惨禍を忘れまじ

 8月4日、クローズアップ現代 被爆80年 迫る“被爆者なき時代”を視聴することができた。

 2024年、ノーベル平和賞を受賞した日本被団協。しかし、その活動の継続は困難に直面している。被爆者の数は2025年初めて10万人を下回り、解散・休止に至る被爆者団体が全国で相次ぐ。“被爆者なき時代”は確実に迫っている。つないでいかなければならないあの日の記憶…核兵器の脅威が高まる今、その意味は重要性を増す。これまで被爆者に頼り切っていた取り組みをどう受け継いでいくか。被爆80年を前にした広島から中継で伝える。

 おとなのEテレタイムマシン井上ひさし原爆を語るということ第2回わしの分まで生きて下さい 〜生者と死者の対話〜が第1回に続いて放送された。初回放送が2000年だから、今ではお宝映像だ。


 広島平和記念公園と原爆ドームの間に川があり、公園側から目の前にドームが見える位置に桑子真帆アナがポジショニングしている映像に番組スタッフの並々ならぬ決意が伝わってきた。

 2022年2月24日、21世紀のスターリン+ヒトラーこと悪魔殺人鬼のプーチンがウクライナに侵攻、侵略したばかりか、核兵器の使用をちらつかせながら、恫喝している。
 恫喝が効いたのか、被団協にノーベル平和賞が授与され、被団協の濱住治郎さんがニューヨークの国連で演説をしている。
 国連演説はともかく、被団協のノーベル賞受賞を知らない人がいることが、新潟県で核兵器禁止の書名を集めていた女性に密着取材していてわかった。

 作家井上ひさしが原爆を語ることの第1回で、自分だけ生き残った被爆者の娘が抱く後ろめたさを天国に召された父と娘との対話で描いた『父と暮らせば』の舞台演劇で紹介していた。
 第2回は、被爆死した父親が娘には自分の分まで長生きしてほしいと願う気持ちを考えた。

 現実に特攻隊の生き残りや玉砕の地から帰還した人たちは亡くなった戦友の分まで長生きしている人がいて、戦争の悲惨さを語り継いでいる。
 元特攻隊員で生き残った茶人が102歳になったとネットで知ったが、TVの人気時代劇『水戸黄門』を演じた俳優西村晃とは千、西村と呼び合う特攻隊仲間で「みんな本当は死にたくなかった」と茶人は語っている。

 被団協で活躍している知人は、胎内被爆者で、被爆者としては一番若いことになるが、それでも80歳だから、被爆者が語り継ぐことができるのも、先が知れている。被爆の事実を継承し、語り継いでいくことが求められている所以である。

 地上戦を戦った沖縄と原爆が投下された被爆地ヒロシマ、ナガサキを除けば、日本の学校教育で戦争のことを正面から教えて来たのか疑問である。
 参議院議員選挙で極右の参政党が台頭し、徴兵制を復活させ、教育勅語、治安維持法も復活させようとするだろう。
 れいわ新選組で参議院議員選挙に当選した福岡の奥田ふみよさんは学校に対する子どもたちの声に耳を傾け、教育の在り方に疑問を呈していた。
 奥田さんはれいわ新選組の非戦の考え方の人だから、米国の戦争に巻き込まれないように考えているはずだ。

 原爆投下されてから80年目の日がまもなくやってくる。
 もっと真剣に戦争に反対することを考えないと来た道を戻ってしまうかもしれない。

2025年08月04日

台湾でバシー海峡戦没者の慰霊祭

 先の大戦中に台湾南方のバシー海峡周辺で戦没した日本人将兵らを悼む慰霊祭が3日、台湾南端の屛東県恒春にある潮音寺で営まれ、遺族ら約150人が参加した。戦後80年にあたる今年は、戦没者慰霊を管轄する厚生労働相による弔辞の代読が初めて行われた。と8月4日の産経新聞(西見由章記者)のWEBが伝えている。

 バシー海峡では大戦末期、南方に向かう日本の輸送艦船などが米潜水艦や空母艦載機に狙い撃ちされ、10万人以上が戦死したとされる。戦没者の遺体の多くが台湾最南端の恒春半島に漂着したが、外交関係がないために公的な慰霊活動は長年行われていない。戦後70年の2015(平成27)年以降、日台の有志が慰霊祭を開催している。

 慰霊祭では対台湾窓口機関、日本台湾交流協会台北事務所の片山和之代表が「わが国の平和と繁栄が戦没者の皆さまの尊い命の上に築かれたものであることに思いを致し、謹んで哀悼の誠をささげる」との福岡資麿厚労相の弔辞を代読した。

 潮音寺は、バシー海峡で撃沈された輸送船「玉津丸」に乗船し、九死に一生を得た故中嶋秀次さんが私財を投じて昭和56年に建立。

 バシー海峡周辺の戦没者を巡っては、厚労省が半世紀ぶりとなる台湾での公的な遺骨収集に向けて「日本戦没者遺骨収集推進協会」の職員を近く現地に派遣する方針だ。


 バシー海峡は軍事的にも重要で、近年は、台湾の統一を目指す中国が台湾周辺で大規模な軍事演習を行う際などにバシー海峡を航行する中国の空母や艦船がたびたび確認されているとNHKなどメディアが伝えている。

 連れ合いが職場の女性たちと月に一度の会食をしたり、仕事をしていた時は年に1回は旅行を楽しんでいた。
 カナダ、オーストラリア、シンガポール、中国、そして台湾とあちこち行ったが、台湾の人々は親日的な印象を受けたという。
 東日本大震災の時、多額の義援金を送ってくれたことを筆頭に高齢者を先頭に韓国と較べ親日的であることは確かなことである。
 しかし、台湾有事をしきりに宣伝しているのは米国で、台湾有事には米軍兵士に代わって日本の自衛隊員に死んでもらいたいと願っている。

 米中戦争の米国の代理をさせられてたまるか。ご都合主義の米国に騙されてはならない。
 東日本大震災であれだけお世話になった台湾を見捨てろなんて言っていない。
 自衛隊が中国軍と戦うことはしないが、台湾を支援することはいくらでもできることだ。
 例えば、台湾から逃げてくる避難民を受け入れることだって立派な支援になる。

 台湾のバシー海峡で米軍に沈められた輸送艦船の乗員の慰霊祭でも何かとお世話になっていることだろうし、台湾出身者が日本軍の一員となって戦ってくれたことも承知しているからこそ、台湾有事には日本は台湾の味方として、戦争以外のことではしっかり支援をする。
 ただし、戦後80年経って、戦争はもう懲り懲りだから、武力衝突には関与しない。
 日中国交回復し、米国寄りの外交姿勢を止めて、中国とも友好的な関係を築き、非戦を訴えていくことが日本の使命ではないか。

2025年08月03日

「売れるクルマない」苦境 日産追浜工場閉鎖

 経営再建中の日産自動車が30日発表した2025年4〜6月期連結決算は、最終利益が1157億円の赤字(前年同期は285億円の黒字)となった。と7月31日の読売が伝えている。
 読売は「苦境日産」というタイトルで、日産には売れるクルマがない。売れるクルマを作れない経営者が労働者をリストラする前にやることは経営陣が辞めることだ。と解釈できることを指摘していたので、書いておきたい。


 カルロス・ゴーンという悪い経営者がトップになった時、労働者のリストラで得たカネを自分と経営陣の給料に回したのを見て、この会社は遠からず、ダメになるなとみていたら、私利私欲で会社の資産を横領した容疑で捕まり、取り調べ中に、国外逃亡というまるで映画の悪い奴のようなことをやってのけた。

 日産の経営陣がおバカばかりだというのは、経営者が作れと号令したクルマが売れないと、作った労働者の首を切るからだ。
 首を切らなければいけないのは、おバカな経営陣ではないか。

 毎日、37度を超える危険な暑さが続いているが、夕方、頑張って散歩をしている。
 街道の歩道を歩きながら通行するクルマを眺めていると、ベンツのマークが増えたが、日本のクルマではトヨタが多く、次いでホンダのクルマが多いが、マツダのクルマも結構見かける。
 明らかに日産のクルマが少ない印象である。
 人間の印象だから、根拠がなく説得力に欠けるきらいはあるが、毎日のことだから見当違いということはあながちなさそうだ。

 視力がよくなくて、後期高齢者になって、免許の更新も容易なことではなくなった。それでも、毎日、畑に行くとき軽トラに乗っているので仕方なく運転免許の更新をしている。
 というわけで、クルマは好きでないが頭で考えることは嫌いではないのでなぜ、日産が売れるクルマを作れないのかおバカな経営陣に代わって考えてみた。
 外国のクルマではベンツの台数がずいぶん増えた印象かつ、トヨタの台数が相変わらず多い。ホンダの台数も多く、以前は少なかったマツダがずいぶん増えたのはクルマが売れている証拠ではないか。
 クルマを買えるカネを持っている人間はいるということになる。

 つまり、日産には乗りたいクルマがないということになる。
 では、どういうクルマを作れば売れるのかといえば、カネを持っている人たちが乗りたい、乗りたくなるクルマを作ればいいということになる。
 なぜ、ベンツのマークがついていれば、売れるのか。トヨタやホンダのクルマはなぜ売れるのか。マツダのマークがついたSUVというのか、どうして売れているのか。
 因みに、わが家の愛車は三菱のパジェロで、初代から数えて6台目になる。製造中止になっているから、街で見かけるのは少ないかもしれない。
 クルマが好きでないため、年に一度か二度降る雪の時、タイヤチェーンが付けられないので雪道に強いパジェロにしている。
 2014(平成26)年2月の大豪雪の時でも、パジェロを愛車にしている連れ合いは無事帰宅していることで、雪道にいかに強いか証明されている。
 さて、売れるクルマを作るためには、わが家のように買い求めるクルマが決まっている場合はともかく、買い求める側に立って考えればいいだけのことである。
 例えば、昔は少なかったワンボックスのクルマが滅茶苦茶売れたのは、便利なことと乗り降りが楽だからである。
 具体的に言えば、子どもの頃TVドラマで視聴した『アンタッチャブル』でエリオット・ネスが乗っていたクルマを今風にしたのがワンボックスで、人間の考えることはそれほど変わらないということになる。
 ズバリ、エリオット・ネスが乗っていた車をできるだけ復元すればいいのである。

 クルマには一般的に高速道路適応力高いスピードが出る流線形のような車に対し、街を走るための座席が椅子型というのか、乗用車タイプではない。乗り降りが楽なクルマがあると考えればいいのだ。

 売れているクルマを分析し、なぜ売れているのか検証すれば、どういうクルマを作れば売れるか素人の自分でさえ、考えられることだから、現在のクルマが売れないなら、素人の指摘でも受け入れてチャレンジしてみればいいのだ。

 自動車工場が閉鎖すると街に活気がなくなってしまう。
 自分たちで売れるクルマが考えられないなら、公募してでも売れるクルマを見つけて、作ってみればいい。
 他のメーカーが作っていないアンタッチャブルの時代のクルマを売り出せば絶対売れるはずだ。
 ただし、高速道路には適応する必要がないことは言うまでもない。
posted by 遥か at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 雇用

2025年08月02日

国道の陥没・空洞10年間で1100件超 「破損管に土砂」44%

 全国の国道で2015〜24年度の10年間に見つかった陥没・空洞は計1157件に上り、その4割強が半年前の埼玉県八潮市の道路陥没事故のように埋設管などの破損による土砂の「吸い込み」で起きていたことが読売新聞のデータ分析でわかった。地盤の締め固め不足などの「施工不良」も約2割に上った。さらに、1キロ以内で複数起きているケースが半数近くあることも判明。専門家は、国による維持管理の強化の必要性を指摘している。と7月27日の読売(笹本貴子、野崎達也記者)が伝えている。

 埼玉県越谷市の国道4号「大間野」交差点では2022〜2024年の間に3回の陥没が起きた。いずれも、鉄製排水管の老朽化が原因で、古い時期に埋められた管などは早急に対応する必要があった。
 
 さらに、過去の工事での締め固め不足が要因とみられる「施工不良」も2割に上ったのは、土木工事での遵守事項を定めた「共通仕様書」の求めが守られていないとして、国交省は「埋設工事では細心の注意を払うよう、工事発注者に呼び掛けていくとしている。


 脱ダム宣言という洒落た言い回しで、村を水没させてダムを作るのはよくないかもと安易に納得してしまったのは1983年公開の神山征二郎監督、加藤嘉主演『ふるさと』を観ているからかもしれない。
 岐阜県の徳山村が湖底に沈んでしまうのだから、村人だったら、躊躇いというのがあるだろう。
 熊本の豪雨水害ではダムの必要性が論じられた。

 上下水道、道路、橋梁、トンネルなどの都市基盤は公共事業でメンテナンスも含めてカネがかかる分、政権与党の利権の巣窟となっている。
 そこで、野党は安易に公共事業に反対する姿勢に立ちがちであるが、メンテを怠った結果が八潮市の道路陥没事故であり、犠牲者となったドライバーはお気の毒なことである。
 2012(平成24)年12月に起きた笹子トンネル天井板落下事故は、重いものを天井に設置すれば、落下するのは当たり前で設計上問題があったとみているが、無論、メンテが重要であることに異論はない。

 おバカな政治家が水道事業の民営化だなどと言いだしたことがあるが、民営化されたら、老朽化した管の新設がきちんとされるわけがないし、料金に跳ね返ったら、貧しき民は料金が支払えない。

 税金は、上下水道、道路、橋梁、トンネルなど都市基盤整備のために使われるから、富裕層には累進課税で収入に見合った税金を納めてもらわなければならないわけだ。
 自動車を作って、一人勝ちのように儲けてきたトヨタ。ほかの自動車メーカーもそうだが内部留保で貯め込んだカネは道路工事に出させることだって考えていく必要があるかもしれない。

 国土の強靭化は米国に命じられるままに軍備を増強する前にやらなければならないことである。

 語り継ぐ戦争で、博多を訪れた時、博多どんたくに偶々遭遇した。
 その博多で、2016(平成28)年11月8日、駅前の道路で陥没事故が起きている。
 
 つまり、道路陥没事故はいつだれがどこで巻き込まれないとも限らないのだ。
 自分が陥没事故に遭遇し、自動車ごと転落したらと考えたら、何はさておき、危険個所の工事を大至急始めてもらいたい。
 他人事ではすまされない。
posted by 遥か at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 災害対策

2025年08月01日

廃棄物を資源に 描く循環社会

 産業廃棄物のリサイクルを手がける石坂産業(埼玉県三芳町)は、環境教育を行う会社としても知られ、国内外から多くの人が見学に訪れる。読売の連載「LEADERS 経営者」に聞く(聞き手小川直樹記者)の7月29日は石坂産業代表取締役石坂典子さん(53)。

 石坂産業の創業者で典子さんの父石坂好男さんの思いは「ごみをごみにしない」だ。この思いを継ぐのは私だと2002年社長に就任した。
 地域から問題視された産廃の焼却施設は廃炉にし、外部に騒音や粉じんを出さなうよう屋内型の工場を建て、産廃の減量化、再資源化を行う事業構造の大転換を進めた。
 すべての廃棄物が資源化する社会構造への変革に向けて種まきを続ける。
 回収の仕組みは製品開発段階から考えることが秘訣だとも。

 08年に工場見学通路を作ったのは、この仕事に価値があることを知ってもらうことが目的だった。
 不法投棄されていた会社周辺の雑木林を豊かな里山に再生。「三富今昔村」と名付けた里山と工場見学者は年間6万人に上る。
 生物多様性が回復し、子どもたちの環境教育ができる「体験の機会の場」に認定されている。 
 資源やエネルギーの循環に、オーガニックファームや里山を通じて土づくりもしているので、生態系の循環のことも話せる。
 石坂産業は循環をデザインする会社。循環の重要性を語るだけでなく、業務を通じて社会や環境をより良い條rチアに再生していくリジェネラティブ・インフラストラクチャー(基盤)になろうとしている。
 経営者の役割は「こういう社会を作りたい」という人を増やすことだ。その思いを受け取った次の担い手が社会実装し、その輪を広げていく。


 毎日、生きていると食べなければならないし、食べたものが体を維持し、不用となったものは排せつされる。
 家族がいてもいなくとも、要らなくなったものはごみとして廃棄する。
 そのごみとされているものでも、分け方や見方を変えると資源となる。

 家庭から出る生活ごみは一般廃棄物と呼ばれ、家庭と家庭以外からの事業系とに分けて収集、処分される。
 家庭から出ても、日々の生活とは異なり、家の解体などで出てくるものは産業廃棄物として大別される。

 祖父が昭和の初めに建てた土蔵があったが、理由あって解体してしまった。
 解体業者が解体を始める前、池袋方面のアンテイックの品物を扱う業者が回収車2台でほとんどの品物を運び出し、持って行ってくれたのでごみはほとんど出なかった。
 基礎コンクリートや柱は分別し、産廃として解体屋が運び出してくれた。
 石坂さんの会社は品物の材質別に用途を絞り、リサイクル処分してくれる産廃受け入れの貴重な会社である。
 産廃を受け入れてくれる会社がなければ、解体屋が困るし、発注者が困る。

 「ごみをごみにしない」という創業者は流石先見の明がある人物だし、後継典子社長は、産廃の投棄場所にされていた雑木林を手入れし、里山として蘇られた。
 産廃の工場と里山と見学してもらい、環境教育に資するとは見上げたものである。

 感心しきりだったのは、回収の仕組みは、製品開発段階から考えるとの指摘だった。
 原発の使用済み核燃料の処分場のことを考えることなく、原発を推進してきた電事連などはこの指摘をわが身に置き換えてもらいたい。

 リーダーとして、尊敬できる。
 エールをおくりたい。
posted by 遥か at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題・公害問題