2025年07月20日

原爆供養塔の清掃と納骨室の公開

 広島市の平和記念公園の一角に、身元不明や引き取り手が見つからない原爆犠牲者約7万人の遺骨を納めた「原爆供養塔」がある。原爆で親族13人を亡くし、自らも被爆した佐伯敏子さん(2017年に97歳で死去)は約40年にわたり、ほぼ毎日、供養塔周辺の清掃を続けた。「広島に歳をとらせないでください」。原爆の記憶を風化させまいと、たった一人で地道な活動を続けた佐伯さんが繰り返し訴えた言葉だ。

 5月中旬、夜が明けたばかりの供養塔で、渡部和子さん(81)=同市西区=が供えられた花の水を替えたり、側溝の落ち葉をかき集めたりしていた。1955年の塔建立後、98年に脳梗塞で倒れるまで清掃を続けた佐伯さんの後を継ぎ、02年からほぼ毎朝、自転車で約30分かけて通っている。と5月26日の毎日新聞(武市智菜実記者)のWEBが伝えていた。

 原爆投下から80年を前に、広島市は16日、原爆死没者約7万人の遺骨を納めた原爆供養塔の納骨室を10年ぶりに報道陣に公開した。大半の遺骨は身元不明だが、名前が分かっていても遺族が見つからない遺骨812柱も含まれている。市の担当者は「供養塔の存在を広く伝え、遺族捜しにつなげたい」と話している。

 平和記念公園(広島市中区)内にある供養塔の地下納骨室は高さ2メートル、広さは約27平方メートル。中央に祭壇があり、両側に設置された棚に、名前が分かっている遺骨は1人ずつ骨つぼに入れられ、身元が分からない遺骨は178個の木箱に入れて安置されている。

 供養塔は1955年、市が中心となって整備した。名札などから名前が確認できた遺骨について、市は68年に名簿を作成して公開し、全国の自治体などに送付している。これまでに遺族が判明した遺骨のうち、1002柱は遺族に返還され、623柱は遺族の意向で供養塔に永久安置している。と7月16日の毎日新聞が上述の記事と同様に伝えている。


 2009年11月にヒロシマを訪れ、原爆供養塔でお参りし、少し経ってから佐伯さんの清掃の件を知った。堀川惠子『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』(文藝春秋)で、原爆供養塔を毎日清掃していた佐伯敏子さんのことを紹介していたことは、残念ながら知らなかった。

 初めて、訪れたヒロシマでは、まず原爆ドームを見学し、激しく心を揺さぶられた。橋を渡って平和記念公園に行き、オバマ大統領も献花した原爆死没者慰霊碑にお参りし、無縁仏の慰霊碑の前で「手向」を吹くつもりで園内を歩いていたら導かれたように原爆供養塔にたどりついた。

 偶々、遊びに来ていた保育園児たちが保育士の先生と一緒に座って聴いてくれたことは生涯忘れられないできごとである。

 原爆供養塔でお参りする人はほとんど見かけないが、ヒロシマを訪れたらここだけはお参りしたい場所である。小山のような塚というか土饅頭の下に遺骨がたくさん埋まっているような墓地にいるような気分になった。
 納骨室が地下にあるとは知らなかったが、遺骨が納められているなら墓地にいるような感覚は的を射ていたようである。

 原爆供養塔を毎日清掃していたという佐伯敏子さん、佐伯さん亡き後、後を継いだ渡辺和子さん、お二人には頭が下がる。

 自分の親やご先祖の墓にお参りするには春、秋の彼岸にお盆様、そして命日くらいであるが、毎日、続けるのは至難のことである。
 2015年4月にも、ヒロシマを訪れ、原爆供養塔にお参りしているが、確かにゴミなど落ちていなかった。

 2025年も、間もなく8月6日がやってくる。
 軍都だから、原爆が投下されたとは言うものの、人種差別の国、米国はイエロージャップと日本人を馬鹿にしているから、日系人だけ収容所に隔離している。

 原爆を投下した米国との同盟は見直す時機が来ている。