2025年07月08日

高橋竹山の津軽三味線

 おとなのEテレタイムマシン1998年に放送されたETV特集「最後の舞台〜津軽三味線 高橋竹山の挑戦〜」を再放送するという粋な企画で嬉しくなり、熱が醒めないうちに書いておく。

 東京は渋谷にあった小劇場ジャンジャンで1973年12月から高橋竹山の津軽三味線の定期演奏会が開催され、何回か聴きに行っている。
 全共闘運動の全盛期に学生時代を過ごしたので、教育をきちんとうけてこなかった、勉強が不十分だった反省から、50代半ばを前に炎症性腸疾患クローン病の加療を理由に早期退職し、通教ではあるが、卒論も書いて還暦の頃には卒業できた。
 社会人になって、少しばかり自由にカネが使えるようになり、夏に北海道旅行をし、次いで津軽半島、下北半島など青森を旅行している時、津軽三味線を聴く機会に恵まれた。
 波長が合うとでもいえばいいのか。津軽三味線の音色に惹きこまれた。

 1977年に公開された新藤兼人監督『竹山ひとり旅』で林隆三が演じた竹山を観たことで、さらに影響を受けて津軽三味線が好きになったような気がする。

 津軽三味線は難しそうで、自分で演奏してみようとは全く思わなかった。

 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2010年6月、およそ30年ぶりに訪れた青森、弘前では津軽三味線を聴き較べる機会に恵まれた。
 20代の終わりに、尺八を始めたこともあって、小濱明人さんのライブにゲスト出演した津軽三味線の山中信人さんの演奏を聴いて驚いた。
 若い頃、買い求めてよく聴いていたレコードの竹山さんとは弾き方、音色がまるで違うことに気づいた。

 古希を過ぎた頃、親族から形見の津軽三味線を処分したいが、誰か譲り受けてくれる人を知らないか。とわが家に津軽三味線一式がケースごと持ち込まれた。

 故人が喜ぶのは楽器を受け継ぐことだから、ということで、連れ合いを拝み倒して一緒に習うことにした。
 連れ合いは、箏、十七絃、三味線にピアノと今もレッスンを続けていて、忙しいから嫌だと言っていたが、渋々つきあってくれた。
 あれから、もう3年が過ぎ、後期高齢者になっても、何とか続いている。
 石の上にも三年というが、初心者が習う入門の曲「六段」が何とか合奏できるようになった。

 名人と称えられた竹山さんと一緒に津軽三味線を語るのは失礼な話だが、竹山さんは三味線を弾く、自分が習っている先生は太鼓みたいに叩くのだということで、全く音色が異なるが、津軽三味線がひょんなことからわが家にやってきて、今、習っているのは不思議でならない。

 人生というものは縁だと思っているが、まさに、縁があったとしか思えない。
 縁といえば、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れた沖縄と本州の最果て青森に縁があるのではないかと気になって仕方ない。
 まず言語である。
 津軽弁と琉球弁というか沖縄弁はどちらも難解でよくわからない。青森は厳密にいえば、津軽弁と南部弁である。
 津軽三味線に沖縄では三線。沖縄の居酒屋では歌に合わせてすぐに客が踊りだすが、津軽でも、手踊りというのか竹山さんの弟子が踊っていたようにすぐに踊りだすのだ。
 津軽がこぎん刺しなら沖縄は芭蕉布という具合である。
 
 気分を害したら謝るが、北と南の両県はいずれも貧しい。
 沖縄は基地だらけなら、青森には米軍三沢基地があるし、原発の使用済み核燃料の中間貯蔵施設もあるということで、嫌がるものを無理やり押し付けられている気がする。

 竹山さんは目が不自由で三味線は生きるための相棒だから、聴く者の魂を揺さぶる演奏を度重なる門つけで身に着けたのであろうか。

 生きるのは誰でも大変なことだが、目が不自由となればなおさらのことだから、古希過ぎの手習いとでは比較にもならない、それでも、同じ津軽三味線を弾いているということだけで嬉しくなってしまう、
posted by 遥か at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 伝統芸能、伝統工芸