2025年07月07日

加害と被害は表裏一体 戦争を推し進めた先に原爆

 平和都市ヒロシマは、かつて「軍都」としての顔を持っていた。戦地に向かう兵隊に熱狂した女性、特攻隊を志した男性の証言から、80年前の原爆投下に至るまでの街の姿をたどる。と6月27日の読売(小松大騎記者)が伝えている。
 広島の軍都としての歴史は、1894年の日清戦争時、明治天皇が軍を指揮する「大本営」が置かれたことに始まる。東京よりも戦地の中国に近い広島市南部の宇品港(現広島港)が陸軍の軍事拠点となり、臨時の首都機能も担った。宇品港の近くには、戦地への兵隊や物資の海上輸送などを担った旧陸軍部隊(通称・暁部隊)が置かれ、船員や軍属など全体で約30万人の人員を有したとされる。

 1937年に日中戦争が始まった当初、宇品港から出征する兵士に向かって日の丸を振った切明千枝子さん(95)。戦況が悪化し、学生は軍需工場などに動員され、兵隊たちの見送りもなくなった。

 43年末、旧陸軍は兵力不足を補うため、特別幹部候補生(特幹)制度を導入し、15歳以上20歳未満の男子志願者の選抜を始めた。
 45年2月、暁部隊の特幹に応募したのは伊藤宜夫さん(97)(岩手県遠野市)で、特攻隊を志願する気持ちでいたが、暁部隊では通信部隊に配属された。
 8月6日、午前8時15分、爆心地から約4・5`の宇品港周辺で任務中だった伊藤さん。雷が何度も落ちたかのような轟音が響いた。
 すぐに救護司令が下り、暁部隊の少年兵ら約400人は壊滅状態の市街地に向かった。

 15歳だった切明さんは爆心地から約2`で被爆した。学校に戻ると下級生らが次々と息を引き取り、校庭で火葬された後の骨拾いをした。
 二人は広島と岩手で語り部をしている。
 戦争を推し進めた先に原爆投下があったことから、加害と被害は表裏一体だと戦争と核兵器使用に反対する。


 アジア太平洋戦争以降、敗北した日本は戦後80年、ほぼ平和な暮らしができたのは日本国憲法9条のお陰である。
 勝者の米国は1950年の朝鮮戦争からベトナム戦争、中東戦争、アフガニスタン戦争と戦争ばかりやってきた結果、戦没者と傷痍軍人があまりにも多くて、米軍を戦地に送ることができなくなっている。
 ロシアに侵略されたウクライナには武器を買わせても、兵士は送らないことで、軍需産業は相変わらず儲かっている。
 日本も米国の真似をして、武器輸出を企むが、他国の人の血を流させて経済がよくなっても意味がない。
 戦争体験者は流石である。
 戦争を始めて、加害者となっても、時の流れで立場逆転で、被害者となってしまうのが戦争というものだ。

 このことは宇品港が軍都広島の港だから、原爆投下の対象になったともいえることで、仮に、日本が米中戦争に巻き込まれたとしたら、原子力発電所が攻撃目標とされることは明白であることを考えれば、戦争に巻き込まれてはならないことが理解できるはずだ。