2025年07月04日

抑留者の辛苦に光を

 戦後80年 昭和百年の読売(戸田貴也記者)の連載、7月2日はシベリア、モンゴルでの抑留者で富山県南砺市の山田秀三さん(107)にスポットを当てている。

 終戦当時、中国東北部・錦州で航空燃料の警備にあたっていた時、武装解除後、貨車に乗せられた。奉天付近で女性や子どもが乗った引き揚げ列車とすれ違い、「自分たちは帰れない」と悟った。1945年11月、28歳だった。
 哈爾浜駅では逃げようとした18から19歳くらいの3人がソ連兵に目の前で銃殺された。
 
 モンゴル国境のナウシキ駅に着いたが、この間20日ほど食事の配給は一切なく、靴下に隠していたわずかなコメや乾パンで空腹をしのいだ。何十`もカラマツの林を歩き、モンゴル兵に引き渡された。歩いたり、軍用車に乗せられ、草原の中の地下洞窟に作られた収容所に入った。

 草原には水がなく、氷点下30度を下回る中、毎朝4キロ先の川まで水を取りに行った。食事は一日一度。雑穀の高粱とラクダの腸の細切れが少し入った雑炊だった。風呂も入れず、不衛生で、同じ分隊の25歳は衰弱して死んだ。
 ウランバートルでは、建物の基礎工事にあたった。土地は春になっても1b下まで凍り付いて鉄板のようだった。
 飢えと極寒、重労働の「三重苦」を耐え、47年11月、引き揚げ船で函館に辿り着いた。

 仲間の慰霊に尽くそうと、98年に全国強制抑留者協会の会員となり、2019年から会長を務めている。
 特に地元のシベリア抑留者慰霊碑の建立には心血を注いだ。仲間の供養にモンゴルに足を運んだ。
 富山県では約3100人が旧ソ連軍に連行され、強制労働と栄養失調などで約600人が亡くなったという。
 富山県高岡市手洗野にある信光寺近くの慰霊碑で、2024年も9月11日に慰霊祭が行われた。
 モンゴルでの抑留者は約1万4,000人で、伝染病や栄養失調などで約1700人が死亡した。


 シベリアでは、抑留者は毎日、黒パンとカーシャというスープを食べていたと耳にしている。
 シベリアと一括りできないほど広くて、収容所は現在のウクライナやカザフスタンさらにはモンゴルと現在のロシアとは別の国に及ぶ。
 ソ連とは別の国であるモンゴルの収容所のことは胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』(文春文庫)を読んでいるが、タイトルにもあるように黒パンを食べていたと思いこんでいた。
 しかし、富山の山田秀三さんによれば、高粱に羊の腸の細切れが入った雑炊だったそうな。
 満州なら高粱が取れたから、雑炊にするということは考えられるので、モンゴルでは、地域によって、黒パンか高粱の雑炊ということだったかもしれない。

 実は、シベリア抑留を忘れないために、ロシア製法の黒パンを秋田の大館のサンドリヨンから取り寄せて、毎朝食べているので、モンゴルで黒パンを食べていない収容所があったことは初耳である。

 ロシア製法の黒パンはサンドリヨンでしか作っていないというから、大館の人はともかく、首都圏では、食べているひとはほとんどいないのではないか。

 モンゴルといえば、大相撲ではモンゴルからやってきた力士の活躍が目立つ。
 しかし、大相撲中継をしているNHKでも、モンゴル抑留者のことを取り上げていた記憶はほとんどなかったと記憶する。

 モンゴルやウクライナ、そしてカザフスタンとすぐに名前が出てくる国にも収容されていた抑留者のことを思えば、事実関係を語り継ぐ必要がある。
 特に、カザフスタンのカラカンダの収容所で炭鉱労働をさせられたことを書いた体験記があるくらいだから、事実関係を語り継ぐことで、戦争を防ぐ意識を高めておくことが肝要だ。