「砂川闘争70年『記憶』も記事に」という見出しのコラムが「東京春秋」325というタイトルで6月29日の読売にあった。畑武尊(46)と記者が紹介されている。
人事異動で20年ぶりに最初の赴任地立川支局で働いている。
戦後80年の2025年、立川といえば、米軍基地の拡張に反対した「砂川闘争」が思い浮かぶ。
1955年5月、米軍が立川基地の滑走路の延長を計画し、砂川町(現・立川市)に通告。これに対し地権者の農民は反対同盟を結成し、町ぐるみの反対運動に発展した。
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」をスローガンに同盟や学生らが警官隊と衝突を繰り返した。
運動が実り米軍は68年、延長中止を発表。返還された土地は自衛隊駐屯地や国営昭和記念公園になった。
2025年は闘争から70年。6月7日に市内で記念の集会が開かれた。
集会では闘争に参加した人、子孫が登壇したのを見て、当時の自分を責めた。
事件の取材に終われ、実際に反対運動を担った農家の話に耳を傾け、記事にするのを怠っていたことに気づいた。
戦後80年でもあるので、現在の基地問題につながる「砂川」の記憶も記事にしていく。と結ぶ。
米軍立川基地が返還され、立川駅北口再開発で整備された駅前は賑やかで、東京地裁八王子支部が立川に移転するくらい、今や三多摩随一の商業都市になった立川。
立川といえば、高島屋にキノシネマがあって、椅子が快適で上映作品がまたためになる作品ばかりという優れた映画館があり、東京の映画館に負けていないのだ。
加齢による心身の著しい衰えで行かれなくなってしまったので、過去のことになるが、正月恒例の箱根駅伝の予選会が自衛隊立川駐屯地と昭和記念公園で開催されるようになってから、毎年応援に行っていたことがある。
国営の昭和記念公園はそれは素晴らしい公園で立川の知名度アップに貢献している。
語り継ぐ戦争の立場からは、立川といえば、戦後の米軍の進駐で、生きるために昨日まで敵だった鬼畜米兵相手に春を鬻いだ「星の流れに」のヒロインのようなパンパンと呼ばれた女性たちのことを書いておかなければならない。
1945(昭和20)年9月、立川に進駐してきたのは米軍 第1騎兵師団 。立川飛行場は接収されて米軍基地となった。 米軍進駐直後から立川の街頭には需要と供給というか街娼が立ち始めたという。
立川には戦前から「錦町楽天地」、「羽衣新天地」という花街があったことも生きていくために立ちんぼが立つ下地があったといえるかもしれない。
小平市立図書館/こだいらデジタルアーカイブ、米軍基地と社会問題によれば、立川基地周辺では、米軍人相手に春をひさぐ「パンパン」と呼ばれた「夜の女」が集まり、最高時の1952年には3000人にもおよび、府中や福生をはじめとする多摩地区全体では7000名ともいわれた(近現代編史料集B No.四五五)。
立川だけでなく、府中には米軍の通信基地、福生には米軍の横田基地があったことで、商売をする女性が集まった。
アジア太平洋戦争に敗れた日本政府は、日本兵が侵略先で現地女性に性的暴行したことや、満州で日本人女性がソ連兵に性的暴行されたことから、婦女子を守るためとして、米兵専属の慰安婦を集めたR・A・A(特殊慰安施設協会)を用意した。
梅毒などの性感染症が蔓延し、米国本国から怒られた進駐軍は、やがて、オフリミットとして、女性たちを追い出したことから、女性たちが基地の街に流れたという説があるくらいである。
砂川闘争に話を戻す。
日米同盟など日本の防衛に全く機能しないことが明らかになった戦後80年。
米軍基地は徐々に返還をしてもらい、跡地は自衛隊が利用するとして、独立国家としての矜持を市民ひとり一人がもたなければならない。
本土、沖縄共に治外法権の米軍基地が多すぎる。
立川が発展したのは、砂川闘争で立川基地が返還されたからではないか。
砂川闘争から70年、戦後80年、米軍基地と戦った市民にエールをおくりたい。