2025年07月01日

元ひめゆり98歳「亡き友の分まで」悲劇伝える

 戦後80年、自民党の西田昌司参議院議員が沖縄のひめゆり平和祈念資料館の展示について、事実と異なる発言をし、参政党の神谷党首がこの発言に同調した演説をしたことが伝えられ、沖縄県民を怒らせた。

 沖縄慰霊の日、沖縄県糸満市の「ひめゆりの塔」では慰霊祭が営まれ、生き残ったことが罪になる―。そんな時代を仲里正子さん(98)は思い出す。と6月24日の読売が伝えている。

 米軍の沖縄上陸が迫る1945年3月23日、仲里正子さんが通う沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒や教員240人は学校から5`離れた沖縄陸軍病院に集められた。
 病院には5月25日に撤退命令が下る。生徒たちは糸満市に点在する6か所のガマに散った。
 6月18日「伊原第一外科壕」で「学徒隊は解散する。自らの判断で行動せよ」  
 240人のうち、半数超の136人が亡くなった。その8割超(117人)が解散後の犠牲者が占める。
 学徒隊の33回忌を終え、同窓会が82年にひめゆり平和祈念資料館の設立事業に取りかかると、「生き残った私たちが亡くなった友達の分まで絶対に伝えるんだ」と約30人の仲間と7年をかけて資料集めや調査に力を尽くした。
 以来、語り部として自分の体験を伝えてきた。
 23日、資料館は開館36年を迎えた。
 生き残った者の使命として、戦争を否定し、平和を願う心を次世代へと引き継ぐ。


 1985年1月、初めて沖縄を訪れた。
 米軍が支配している沖縄だから、レンタカーという考えは全く浮かばず、タクシーで南部戦跡を周った。
 ひめゆりの塔にも当然のこととしてお参りするために案内してもらったが、当時は、ひめゆり平和祈念資料館はできていなくて、訪れた時期もあったかもしれないが、賑やかという雰囲気ではなかった。
 ひめゆりが女子学徒なら、男子学徒の健児の塔にも案内してもらったが、こちらもお参りする人は少なかった。
 摩文仁の県営平和祈念公園に現在の平和祈念資料館ができたのは2000年4月1日。資料館は1975(昭和50)年6月11日に開設されていた。
 鉄の暴風をイメージしたという平和の礎は、1995年6月23日にできたということで、こちらもまだなかった。

 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄を訪れたのは2011年の夏のことだった。2度目の沖縄は26年経って南部戦跡も整備され、資料館も見応えあったが、平和の礎には驚かされた。
敵味方なく、民族差別もない、素晴らしい理念の下にできていて感心しきりであった。

 ひめゆり平和祈念資料館では、元学徒隊の宮城喜久子さんがガイドの当番だったかしていて、個人的にはいろいろ教えてもらいたいと願っていたが、夏休みで入場者が多く、そんなわがままは通らない雰囲気だった。

 語りべの体験談も聞くことができたが、80年経って、自民党の西田昌司参議院議員、参政党の神谷党首の歴史を曲げてしまおうとするかの様な発言に対し、沖縄県民同様、怒りを禁じえない。

 沖縄戦は日本軍が本土の防波堤、本土決戦の時間稼ぎの持久戦を企図したため、軍民混在で県民の犠牲者が多数でた。
「沖縄県民かく戦えり」と沖縄戦を戦った県民を称えた大田實海軍少将が自決する前に海軍次官に宛てた電文がある。
 西田昌司参議院議員、神谷党首は恥をしるべきである。

 沖縄戦ではひめゆりなどの女子学徒隊、鉄血勤皇隊や通信隊などの男子学徒隊までも動員されたのである、

 感謝するしかない。