全国で唯一、刑務所の中にある公立中学校「松本市立旭町中学校桐分校」について、法務省は、早ければ2026年度にも男女共学化する方針を固めた。と6月12日の読売(柏木万里、山下真剣範記者)が夕刊で伝えている。
長年、男性受刑者しか受け入れてこなかった態勢を見直す。
6月から拘禁刑が導入されたことを踏まえ、一般社会により近い環境を整えて、出所後の円滑な社会復帰につなげる狙いがある。
全国の刑事施設には約3万4000人の受刑者が収容されており、このうち男性が9割を占める。
男女別の処遇が基本だが、「喜連川社会復帰促進センター」や「加古川刑務所」など一部の刑務所では、男女共同で職業訓練を受けている。
全国の刑務所に先駆け、富山刑務所で1970年12月に始まった、受刑者向けのラジオ番組「730ナイトアワー」が6月30日に放送500回を迎える。初回から半世紀近くDJを務める清原禅寺の住職、川越恒豊さん(84)は」受刑者の心のぬくもりが目を覚ますよう、温かい言葉をかけ続けたい」と語っている。と6月27日の読売(吉武幸一郎記者)が夕刊で伝えている。
世の中を変える可能性がある参議院議員選挙が7月20日の投票日を前に、期日前投票がすでに始まっている。
「自由のために」をスローガンに語り継ぐ戦争をメインに犯罪被害者支援を訴えてきた。
参議院議員選挙の東京選挙区の候補者でれいわ新選組の山本ジョージさんが刑務所の受刑者の更生に尽力してきたことを知り、なんとしても、当選してほしいと、小学校の分校の時からの幼馴染の女性にもお願いしてしまった。幼馴染だから、「心に留めておく」と言ってはくれたが、受刑者の更生を手助けすることで犯罪を減らす活動をしているという自分の説明は理解してくれたかどうかわからない。
山本ジョージさんは、元衆議院議員で秘書給与を事務所の経費に流用したことで詐欺罪で逮捕され、実刑判決を受けて、塀の中に収容されたとき、目撃したのは、高齢者、心身の障がい者など社会的弱者ばかりで、山本さんは刑務所からの処遇として、彼らの面倒を見る係を担当したそうな。
出所後、彼らの更生のために尽力する中で、法務省や厚生労働省に出向き、協力をお願いしてきた。
犯罪被害者支援の究極は受刑者の再犯防止で、出所してから、まず、仕事にありつけること。温かい家庭があればさらにいうことなし。ということで更生に臨んでいたが、ことはそれほど簡単ではなく、政治の力が必要だと痛感させられた。
そんなある日、前立腺がんだったか、見つかり、自分の残りの人生を社会的に役立つことに使いたいと考えていた時、れいわ新選組の山本太郎代表に参議院議員選挙の東京選挙区からの立候補を打診され、よくよく考えた結果、もう一度、政治の世界にチャレンジすることにしたという。
過去、何回も書いてきたことがある。
人間、誰しも過ちを犯すことがあるが、立ち直る意思がある人は更生できる。支えてくれる人もいる。
しかし、女性に対する性暴力犯罪者のように再犯を繰り返す者もいて、再犯を繰り返す場合は塀の中で生活してもらわなければならないということ。
一度受刑者になっても、更生し、きちんと働き自立できるようになれば、社会に貢献できる。
ということで、高齢者や心身の障がい者、薬物乱用者などが更生するには、社会的な支援が不可欠だ。
受刑者の更生に身を捧げる人が政治家の中にいてもらいたいので、山本ジョージさんにはぜひとも、当選してもらいたいと強く願っている。
刑務所の処遇で学校にも行かれなかった人たちが学ぶ場として、刑務所内の中学校があり、男女共学という当たり前に形をとることで、更生に良い影響があればよい試みである。
さらに、刑務所の受刑者を励ました存在としては、高倉健さんや八代亜紀さんがいたが、富山刑務所のラジオでDJを担当していた僧侶の男性は職業柄、教誨師などを務める人もいて、受刑者の気持ちが理解できるひとであろう。
世に書く、受刑者が更生する手助けは重要な仕事であることを訴えておく。
2025年07月11日
2025年07月10日
教育で変えられてしまう戦争への向き合い方
「 日本兵は『消耗品』のように散っていった…無慈悲に『玉砕』を命じるエリート将校を育てた"過激な教育内容"というタイトルで、ノンフィクション作家保坂正康さんの著作を7月10日、プレジデントオンラインが紹介していた。
『昭和陸軍の研究』上(朝日文庫)の全4回の第1回ということになる。
太平洋戦争当時の陸軍の指導部は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学校(陸大)と、陸軍の教育機関を優秀な成績で卒業している。しかし、実戦経験は乏しかった。
長州閥による支配体制が終焉、戦争に勝ったドイツ陸軍の背中を追った。
昭和陸軍の軍事指導者は〈人間〉に対しての洞察力を著しく欠いていた。哲学的、倫理的側面から人間をみることはできず、単に戦時消耗品とみる気質から抜けだすことはできなかった。
その具体的例としては、つねに歩兵重視の肉弾攻撃にとらわれていたこと、兵士を無機質の兵器に育てることに懸命になったこと、補給、兵站思想をないがしろにしたこと、などによくあらわれている。意味もなく兵士たちに玉砕を命じ、それに対して自省もなく次つぎにその種の作戦を命じたこともあげられる。
昭和7年(1932年)7月に、陸大幹事(注・副校長のこと)で陸軍少将の今井清の名で、『統帥参考』という大部の書がだされている。陸大で学ぶ学生(中尉が多かった)に用いる資料で、当時は一般には公開されていなかった。
天皇の大権のもとにある“神の軍隊”「軍人の行動には誰にも口を挟ませない」
以上が、日本兵を消耗品のように散らせた陸軍指導部の基本的な考え方である。
参議院議員選挙の選挙戦で、神谷党首の独裁、国民主権から天皇主権、個人の人権を制限し、国家主義、教育勅語復活という戦前の日本に戻すという超右寄りの参政党の支持者が増えているとメディアが伝えている。
対極にあるのが、「生きているだけで一人ひとりに価値がある」という個人を大切にする政治を訴える山本太郎代表のれいわ新選組。
語り継ぐ戦争という立場であるから、アジア太平洋戦争で300万人以上もの人々が犠牲となった戦争の反省を踏まえ、平和な社会が続くことを願っている。
半藤一利さんが退場されてから、アジア太平洋戦争といえば、保坂正康さんを頼りに勉強させてもらっているので、その保坂さんの陸軍指導部の検証は心強いものがある。
やはりというのか、陸軍の指導部は勉強がよくできる軍人の集まりだった。
その学業成績優秀な指導部が使っていたのが『統帥参考』で、上の命令に絶対服従、かつ、自ら考えて行動することがない兵士で、自分たちに使い勝手が良い兵士を育てようとしていた。
大本営にしろ、陸軍の上層部にしろ、自分たちは戦地で戦うことなく、戦況が不利になれば、玉砕せよと兵士たちに命令していた。
戦陣訓とか教育勅語とか、戦争を企図する側に都合の良い解釈で、捕虜になるな、最後は玉砕だと死ぬことを強要したことを絶対忘れてはならない。
世界の軍隊で、日本ほど兵隊の命が粗末にされたことはない。
生きていれば、何とかやり直せても死んでしまえばお仕舞だというにだ。
『昭和陸軍の研究』上(朝日文庫)の全4回の第1回ということになる。
太平洋戦争当時の陸軍の指導部は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学校(陸大)と、陸軍の教育機関を優秀な成績で卒業している。しかし、実戦経験は乏しかった。
長州閥による支配体制が終焉、戦争に勝ったドイツ陸軍の背中を追った。
昭和陸軍の軍事指導者は〈人間〉に対しての洞察力を著しく欠いていた。哲学的、倫理的側面から人間をみることはできず、単に戦時消耗品とみる気質から抜けだすことはできなかった。
その具体的例としては、つねに歩兵重視の肉弾攻撃にとらわれていたこと、兵士を無機質の兵器に育てることに懸命になったこと、補給、兵站思想をないがしろにしたこと、などによくあらわれている。意味もなく兵士たちに玉砕を命じ、それに対して自省もなく次つぎにその種の作戦を命じたこともあげられる。
昭和7年(1932年)7月に、陸大幹事(注・副校長のこと)で陸軍少将の今井清の名で、『統帥参考』という大部の書がだされている。陸大で学ぶ学生(中尉が多かった)に用いる資料で、当時は一般には公開されていなかった。
天皇の大権のもとにある“神の軍隊”「軍人の行動には誰にも口を挟ませない」
以上が、日本兵を消耗品のように散らせた陸軍指導部の基本的な考え方である。
参議院議員選挙の選挙戦で、神谷党首の独裁、国民主権から天皇主権、個人の人権を制限し、国家主義、教育勅語復活という戦前の日本に戻すという超右寄りの参政党の支持者が増えているとメディアが伝えている。
対極にあるのが、「生きているだけで一人ひとりに価値がある」という個人を大切にする政治を訴える山本太郎代表のれいわ新選組。
語り継ぐ戦争という立場であるから、アジア太平洋戦争で300万人以上もの人々が犠牲となった戦争の反省を踏まえ、平和な社会が続くことを願っている。
半藤一利さんが退場されてから、アジア太平洋戦争といえば、保坂正康さんを頼りに勉強させてもらっているので、その保坂さんの陸軍指導部の検証は心強いものがある。
やはりというのか、陸軍の指導部は勉強がよくできる軍人の集まりだった。
その学業成績優秀な指導部が使っていたのが『統帥参考』で、上の命令に絶対服従、かつ、自ら考えて行動することがない兵士で、自分たちに使い勝手が良い兵士を育てようとしていた。
大本営にしろ、陸軍の上層部にしろ、自分たちは戦地で戦うことなく、戦況が不利になれば、玉砕せよと兵士たちに命令していた。
戦陣訓とか教育勅語とか、戦争を企図する側に都合の良い解釈で、捕虜になるな、最後は玉砕だと死ぬことを強要したことを絶対忘れてはならない。
世界の軍隊で、日本ほど兵隊の命が粗末にされたことはない。
生きていれば、何とかやり直せても死んでしまえばお仕舞だというにだ。
2025年07月09日
生活保護減額「違法」手続きに過誤
6月27日、最高裁判所第3小法廷(宇賀克也裁判長)は、第2次安倍政権下で行われた2013年からの過去最大の生活保護基準引き下げについて、厚生労働相の減額決定を生活保護法違反と認定し、処分の取り消しを命じる原告勝訴判決を言い渡した。とメディアが伝えている。
7月8日の毎日新聞、稲葉剛・立教大学大学院社会デザイン研究科客員教授によれば、判決は国が引き下げの主たる根拠として示した「デフレ調整」について、「専門的知見との整合性を欠き、厚生労働相の判断の過程及び手続きに過誤、欠落があり違法」と認定した。国が定めた生活保護の基準について最高裁が違法と認定したのは史上初めてだ。
生活保護は憲法第25条が定める生存権保障の岩盤となっている制度であり、その基準は「ナショナルミニマム」(健康で文化的な最低限度の生活)を示すラインとして、就学援助など47の低所得者支援制度の要件を定める際にも参照されている。生活保護基準の引き下げは、この制度の利用者に月々、支給される保護費が減額されるだけでなく、他制度がカバーしていた低所得者層も縮小し、日本の貧困対策全体が後退することにつながる。このことから、一連の訴訟は「いのちのとりで裁判」と呼ばれてきた。
時あたかも参議院議員選挙で、議員には飛行機はファーストクラス、新幹線などはグリーン車などのフリーパスが使える特権が与えられている。
その特権階級からは、生活保護の減額に反対する態度を表明していたのはれいわ新選組の山本太郎代表くらいなもので、生活保護制度に理解がある人は少ないのではないか。
かつて、年越し派遣村の村長、現在、子ども食堂の支援をしている社会活動家の湯浅誠さんは、生活保護の不正受給を指摘する人たちに対し、受給者全体からみれば、一握りにしか過ぎない不正受給を問題視して、真に困っている人のセイフティーネットである生活保護を受給できないようでは日本国憲法、生活保護法の精神に反すると訴えていた。
国民主権から天皇主権国家に戻すという参政党の支持者が増えているとメディアが伝えているが、個人の権利よりも国家が優先するという考え方でアジア太平洋戦争を始めた反省が全くないことに戦後80年、何も学ばなかった人たちが増えてしまったことに危機感さえ覚える。
財界の要求に応え、派遣労働を認め、労働者の非正規雇用化で低賃金のまま働かせることで、30年にも及ぶ不況で生活困窮者を増やしてきた自民党、公明党政権。
低賃金で労働者が集まらない介護などの仕事に外国人労働者を入国させ、低賃金で働く外国人を増やしてきたのは自民党と公明党政権である。このことを批判せず、移民反対だと発言しているのが参政党である。
一方で、洗脳されて高額な献金を続けさせられ家庭が崩壊した旧統一教会の信者が、結びつきの深かった権力者を倒したことから、旧統一教会の実態が明らかにされ、メディアでも再三取り上げられ、解散命令が出されるまでに対策が進化した。
自民党が旧統一教会と結びつきが深かったことはよく知られているが、参政党は旧統一教会を批判するような動きが見られないのは、深い関係があるからではないかと疑われている。
自民党、公明党、参政党のような個人より、国家優先という考え方は日本国憲法の精神に反する考え方であり、「一人ひとりが生きていてよかった」と思える社会にするというれいわ新選組の山本太郎代表の考えは、生活保護法が貧困層の最後の砦として、国の勝手な裁量で保護費を減額させることに反対する立場であることから、選挙ではどの政党を選択しなければならないかが明らかとなっている。
生活保護法は、今は何とか生活できても、明日のことはわからないという人たちにとっては、安心のセイフティーネットであり、他人事ではない。
国家が大事にされ、個人が大事にされない時代、戦争で300万人以上の人たちが死んでいるではないか。
参政党を選択すると、戦前、戦中に逆戻りし、個人の生きる自由が束縛され、明らかに中国みたいになることだけは間違いない。
7月8日の毎日新聞、稲葉剛・立教大学大学院社会デザイン研究科客員教授によれば、判決は国が引き下げの主たる根拠として示した「デフレ調整」について、「専門的知見との整合性を欠き、厚生労働相の判断の過程及び手続きに過誤、欠落があり違法」と認定した。国が定めた生活保護の基準について最高裁が違法と認定したのは史上初めてだ。
生活保護は憲法第25条が定める生存権保障の岩盤となっている制度であり、その基準は「ナショナルミニマム」(健康で文化的な最低限度の生活)を示すラインとして、就学援助など47の低所得者支援制度の要件を定める際にも参照されている。生活保護基準の引き下げは、この制度の利用者に月々、支給される保護費が減額されるだけでなく、他制度がカバーしていた低所得者層も縮小し、日本の貧困対策全体が後退することにつながる。このことから、一連の訴訟は「いのちのとりで裁判」と呼ばれてきた。
時あたかも参議院議員選挙で、議員には飛行機はファーストクラス、新幹線などはグリーン車などのフリーパスが使える特権が与えられている。
その特権階級からは、生活保護の減額に反対する態度を表明していたのはれいわ新選組の山本太郎代表くらいなもので、生活保護制度に理解がある人は少ないのではないか。
かつて、年越し派遣村の村長、現在、子ども食堂の支援をしている社会活動家の湯浅誠さんは、生活保護の不正受給を指摘する人たちに対し、受給者全体からみれば、一握りにしか過ぎない不正受給を問題視して、真に困っている人のセイフティーネットである生活保護を受給できないようでは日本国憲法、生活保護法の精神に反すると訴えていた。
国民主権から天皇主権国家に戻すという参政党の支持者が増えているとメディアが伝えているが、個人の権利よりも国家が優先するという考え方でアジア太平洋戦争を始めた反省が全くないことに戦後80年、何も学ばなかった人たちが増えてしまったことに危機感さえ覚える。
財界の要求に応え、派遣労働を認め、労働者の非正規雇用化で低賃金のまま働かせることで、30年にも及ぶ不況で生活困窮者を増やしてきた自民党、公明党政権。
低賃金で労働者が集まらない介護などの仕事に外国人労働者を入国させ、低賃金で働く外国人を増やしてきたのは自民党と公明党政権である。このことを批判せず、移民反対だと発言しているのが参政党である。
一方で、洗脳されて高額な献金を続けさせられ家庭が崩壊した旧統一教会の信者が、結びつきの深かった権力者を倒したことから、旧統一教会の実態が明らかにされ、メディアでも再三取り上げられ、解散命令が出されるまでに対策が進化した。
自民党が旧統一教会と結びつきが深かったことはよく知られているが、参政党は旧統一教会を批判するような動きが見られないのは、深い関係があるからではないかと疑われている。
自民党、公明党、参政党のような個人より、国家優先という考え方は日本国憲法の精神に反する考え方であり、「一人ひとりが生きていてよかった」と思える社会にするというれいわ新選組の山本太郎代表の考えは、生活保護法が貧困層の最後の砦として、国の勝手な裁量で保護費を減額させることに反対する立場であることから、選挙ではどの政党を選択しなければならないかが明らかとなっている。
生活保護法は、今は何とか生活できても、明日のことはわからないという人たちにとっては、安心のセイフティーネットであり、他人事ではない。
国家が大事にされ、個人が大事にされない時代、戦争で300万人以上の人たちが死んでいるではないか。
参政党を選択すると、戦前、戦中に逆戻りし、個人の生きる自由が束縛され、明らかに中国みたいになることだけは間違いない。
2025年07月08日
高橋竹山の津軽三味線
おとなのEテレタイムマシン1998年に放送されたETV特集「最後の舞台〜津軽三味線 高橋竹山の挑戦〜」を再放送するという粋な企画で嬉しくなり、熱が醒めないうちに書いておく。
東京は渋谷にあった小劇場ジャンジャンで1973年12月から高橋竹山の津軽三味線の定期演奏会が開催され、何回か聴きに行っている。
全共闘運動の全盛期に学生時代を過ごしたので、教育をきちんとうけてこなかった、勉強が不十分だった反省から、50代半ばを前に炎症性腸疾患クローン病の加療を理由に早期退職し、通教ではあるが、卒論も書いて還暦の頃には卒業できた。
社会人になって、少しばかり自由にカネが使えるようになり、夏に北海道旅行をし、次いで津軽半島、下北半島など青森を旅行している時、津軽三味線を聴く機会に恵まれた。
波長が合うとでもいえばいいのか。津軽三味線の音色に惹きこまれた。
1977年に公開された新藤兼人監督『竹山ひとり旅』で林隆三が演じた竹山を観たことで、さらに影響を受けて津軽三味線が好きになったような気がする。
津軽三味線は難しそうで、自分で演奏してみようとは全く思わなかった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2010年6月、およそ30年ぶりに訪れた青森、弘前では津軽三味線を聴き較べる機会に恵まれた。
20代の終わりに、尺八を始めたこともあって、小濱明人さんのライブにゲスト出演した津軽三味線の山中信人さんの演奏を聴いて驚いた。
若い頃、買い求めてよく聴いていたレコードの竹山さんとは弾き方、音色がまるで違うことに気づいた。
古希を過ぎた頃、親族から形見の津軽三味線を処分したいが、誰か譲り受けてくれる人を知らないか。とわが家に津軽三味線一式がケースごと持ち込まれた。
故人が喜ぶのは楽器を受け継ぐことだから、ということで、連れ合いを拝み倒して一緒に習うことにした。
連れ合いは、箏、十七絃、三味線にピアノと今もレッスンを続けていて、忙しいから嫌だと言っていたが、渋々つきあってくれた。
あれから、もう3年が過ぎ、後期高齢者になっても、何とか続いている。
石の上にも三年というが、初心者が習う入門の曲「六段」が何とか合奏できるようになった。
名人と称えられた竹山さんと一緒に津軽三味線を語るのは失礼な話だが、竹山さんは三味線を弾く、自分が習っている先生は太鼓みたいに叩くのだということで、全く音色が異なるが、津軽三味線がひょんなことからわが家にやってきて、今、習っているのは不思議でならない。
人生というものは縁だと思っているが、まさに、縁があったとしか思えない。
縁といえば、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れた沖縄と本州の最果て青森に縁があるのではないかと気になって仕方ない。
まず言語である。
津軽弁と琉球弁というか沖縄弁はどちらも難解でよくわからない。青森は厳密にいえば、津軽弁と南部弁である。
津軽三味線に沖縄では三線。沖縄の居酒屋では歌に合わせてすぐに客が踊りだすが、津軽でも、手踊りというのか竹山さんの弟子が踊っていたようにすぐに踊りだすのだ。
津軽がこぎん刺しなら沖縄は芭蕉布という具合である。
気分を害したら謝るが、北と南の両県はいずれも貧しい。
沖縄は基地だらけなら、青森には米軍三沢基地があるし、原発の使用済み核燃料の中間貯蔵施設もあるということで、嫌がるものを無理やり押し付けられている気がする。
竹山さんは目が不自由で三味線は生きるための相棒だから、聴く者の魂を揺さぶる演奏を度重なる門つけで身に着けたのであろうか。
生きるのは誰でも大変なことだが、目が不自由となればなおさらのことだから、古希過ぎの手習いとでは比較にもならない、それでも、同じ津軽三味線を弾いているということだけで嬉しくなってしまう、
東京は渋谷にあった小劇場ジャンジャンで1973年12月から高橋竹山の津軽三味線の定期演奏会が開催され、何回か聴きに行っている。
全共闘運動の全盛期に学生時代を過ごしたので、教育をきちんとうけてこなかった、勉強が不十分だった反省から、50代半ばを前に炎症性腸疾患クローン病の加療を理由に早期退職し、通教ではあるが、卒論も書いて還暦の頃には卒業できた。
社会人になって、少しばかり自由にカネが使えるようになり、夏に北海道旅行をし、次いで津軽半島、下北半島など青森を旅行している時、津軽三味線を聴く機会に恵まれた。
波長が合うとでもいえばいいのか。津軽三味線の音色に惹きこまれた。
1977年に公開された新藤兼人監督『竹山ひとり旅』で林隆三が演じた竹山を観たことで、さらに影響を受けて津軽三味線が好きになったような気がする。
津軽三味線は難しそうで、自分で演奏してみようとは全く思わなかった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2010年6月、およそ30年ぶりに訪れた青森、弘前では津軽三味線を聴き較べる機会に恵まれた。
20代の終わりに、尺八を始めたこともあって、小濱明人さんのライブにゲスト出演した津軽三味線の山中信人さんの演奏を聴いて驚いた。
若い頃、買い求めてよく聴いていたレコードの竹山さんとは弾き方、音色がまるで違うことに気づいた。
古希を過ぎた頃、親族から形見の津軽三味線を処分したいが、誰か譲り受けてくれる人を知らないか。とわが家に津軽三味線一式がケースごと持ち込まれた。
故人が喜ぶのは楽器を受け継ぐことだから、ということで、連れ合いを拝み倒して一緒に習うことにした。
連れ合いは、箏、十七絃、三味線にピアノと今もレッスンを続けていて、忙しいから嫌だと言っていたが、渋々つきあってくれた。
あれから、もう3年が過ぎ、後期高齢者になっても、何とか続いている。
石の上にも三年というが、初心者が習う入門の曲「六段」が何とか合奏できるようになった。
名人と称えられた竹山さんと一緒に津軽三味線を語るのは失礼な話だが、竹山さんは三味線を弾く、自分が習っている先生は太鼓みたいに叩くのだということで、全く音色が異なるが、津軽三味線がひょんなことからわが家にやってきて、今、習っているのは不思議でならない。
人生というものは縁だと思っているが、まさに、縁があったとしか思えない。
縁といえば、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で訪れた沖縄と本州の最果て青森に縁があるのではないかと気になって仕方ない。
まず言語である。
津軽弁と琉球弁というか沖縄弁はどちらも難解でよくわからない。青森は厳密にいえば、津軽弁と南部弁である。
津軽三味線に沖縄では三線。沖縄の居酒屋では歌に合わせてすぐに客が踊りだすが、津軽でも、手踊りというのか竹山さんの弟子が踊っていたようにすぐに踊りだすのだ。
津軽がこぎん刺しなら沖縄は芭蕉布という具合である。
気分を害したら謝るが、北と南の両県はいずれも貧しい。
沖縄は基地だらけなら、青森には米軍三沢基地があるし、原発の使用済み核燃料の中間貯蔵施設もあるということで、嫌がるものを無理やり押し付けられている気がする。
竹山さんは目が不自由で三味線は生きるための相棒だから、聴く者の魂を揺さぶる演奏を度重なる門つけで身に着けたのであろうか。
生きるのは誰でも大変なことだが、目が不自由となればなおさらのことだから、古希過ぎの手習いとでは比較にもならない、それでも、同じ津軽三味線を弾いているということだけで嬉しくなってしまう、
2025年07月07日
加害と被害は表裏一体 戦争を推し進めた先に原爆
平和都市ヒロシマは、かつて「軍都」としての顔を持っていた。戦地に向かう兵隊に熱狂した女性、特攻隊を志した男性の証言から、80年前の原爆投下に至るまでの街の姿をたどる。と6月27日の読売(小松大騎記者)が伝えている。
広島の軍都としての歴史は、1894年の日清戦争時、明治天皇が軍を指揮する「大本営」が置かれたことに始まる。東京よりも戦地の中国に近い広島市南部の宇品港(現広島港)が陸軍の軍事拠点となり、臨時の首都機能も担った。宇品港の近くには、戦地への兵隊や物資の海上輸送などを担った旧陸軍部隊(通称・暁部隊)が置かれ、船員や軍属など全体で約30万人の人員を有したとされる。
1937年に日中戦争が始まった当初、宇品港から出征する兵士に向かって日の丸を振った切明千枝子さん(95)。戦況が悪化し、学生は軍需工場などに動員され、兵隊たちの見送りもなくなった。
43年末、旧陸軍は兵力不足を補うため、特別幹部候補生(特幹)制度を導入し、15歳以上20歳未満の男子志願者の選抜を始めた。
45年2月、暁部隊の特幹に応募したのは伊藤宜夫さん(97)(岩手県遠野市)で、特攻隊を志願する気持ちでいたが、暁部隊では通信部隊に配属された。
8月6日、午前8時15分、爆心地から約4・5`の宇品港周辺で任務中だった伊藤さん。雷が何度も落ちたかのような轟音が響いた。
すぐに救護司令が下り、暁部隊の少年兵ら約400人は壊滅状態の市街地に向かった。
15歳だった切明さんは爆心地から約2`で被爆した。学校に戻ると下級生らが次々と息を引き取り、校庭で火葬された後の骨拾いをした。
二人は広島と岩手で語り部をしている。
戦争を推し進めた先に原爆投下があったことから、加害と被害は表裏一体だと戦争と核兵器使用に反対する。
アジア太平洋戦争以降、敗北した日本は戦後80年、ほぼ平和な暮らしができたのは日本国憲法9条のお陰である。
勝者の米国は1950年の朝鮮戦争からベトナム戦争、中東戦争、アフガニスタン戦争と戦争ばかりやってきた結果、戦没者と傷痍軍人があまりにも多くて、米軍を戦地に送ることができなくなっている。
ロシアに侵略されたウクライナには武器を買わせても、兵士は送らないことで、軍需産業は相変わらず儲かっている。
日本も米国の真似をして、武器輸出を企むが、他国の人の血を流させて経済がよくなっても意味がない。
戦争体験者は流石である。
戦争を始めて、加害者となっても、時の流れで立場逆転で、被害者となってしまうのが戦争というものだ。
このことは宇品港が軍都広島の港だから、原爆投下の対象になったともいえることで、仮に、日本が米中戦争に巻き込まれたとしたら、原子力発電所が攻撃目標とされることは明白であることを考えれば、戦争に巻き込まれてはならないことが理解できるはずだ。
広島の軍都としての歴史は、1894年の日清戦争時、明治天皇が軍を指揮する「大本営」が置かれたことに始まる。東京よりも戦地の中国に近い広島市南部の宇品港(現広島港)が陸軍の軍事拠点となり、臨時の首都機能も担った。宇品港の近くには、戦地への兵隊や物資の海上輸送などを担った旧陸軍部隊(通称・暁部隊)が置かれ、船員や軍属など全体で約30万人の人員を有したとされる。
1937年に日中戦争が始まった当初、宇品港から出征する兵士に向かって日の丸を振った切明千枝子さん(95)。戦況が悪化し、学生は軍需工場などに動員され、兵隊たちの見送りもなくなった。
43年末、旧陸軍は兵力不足を補うため、特別幹部候補生(特幹)制度を導入し、15歳以上20歳未満の男子志願者の選抜を始めた。
45年2月、暁部隊の特幹に応募したのは伊藤宜夫さん(97)(岩手県遠野市)で、特攻隊を志願する気持ちでいたが、暁部隊では通信部隊に配属された。
8月6日、午前8時15分、爆心地から約4・5`の宇品港周辺で任務中だった伊藤さん。雷が何度も落ちたかのような轟音が響いた。
すぐに救護司令が下り、暁部隊の少年兵ら約400人は壊滅状態の市街地に向かった。
15歳だった切明さんは爆心地から約2`で被爆した。学校に戻ると下級生らが次々と息を引き取り、校庭で火葬された後の骨拾いをした。
二人は広島と岩手で語り部をしている。
戦争を推し進めた先に原爆投下があったことから、加害と被害は表裏一体だと戦争と核兵器使用に反対する。
アジア太平洋戦争以降、敗北した日本は戦後80年、ほぼ平和な暮らしができたのは日本国憲法9条のお陰である。
勝者の米国は1950年の朝鮮戦争からベトナム戦争、中東戦争、アフガニスタン戦争と戦争ばかりやってきた結果、戦没者と傷痍軍人があまりにも多くて、米軍を戦地に送ることができなくなっている。
ロシアに侵略されたウクライナには武器を買わせても、兵士は送らないことで、軍需産業は相変わらず儲かっている。
日本も米国の真似をして、武器輸出を企むが、他国の人の血を流させて経済がよくなっても意味がない。
戦争体験者は流石である。
戦争を始めて、加害者となっても、時の流れで立場逆転で、被害者となってしまうのが戦争というものだ。
このことは宇品港が軍都広島の港だから、原爆投下の対象になったともいえることで、仮に、日本が米中戦争に巻き込まれたとしたら、原子力発電所が攻撃目標とされることは明白であることを考えれば、戦争に巻き込まれてはならないことが理解できるはずだ。
2025年07月06日
鉄血勤皇隊員なればこそ、日本の加害責任に言及
「沖縄は『今も戦の島』…歴代知事の『平和宣言』全49回分が映す現実 沖縄タイムス元編集局長が読み解くと」というタイトルで、沖縄県糸満市摩文仁で毎年6月23日に営まれる「沖縄全戦没者追悼式」。そこで県知事が読む「平和宣言」は、歴代知事の姿勢、米軍基地問題を中心とする沖縄の課題を映し出してきた。7人の知事による全49回の宣言を分析する地元紙「沖縄タイムス」元編集局長でジャーナリスト、諸見里道浩さん(73)=那覇市=に変遷を問うた。と7月6日の東京新聞WEB(太田理英子記者)が伝えている。
5月に「ひめゆりの塔」の展示説明を巡り、自民党の西田昌司参院議員が「歴史の書き換え」と発言した問題など歴史認識の歪曲が繰り返される中、平和宣言の読み解きは、沖縄がたどってきた道を知る重要な手だてになる。諸見里さんはこう力を込めた。「無差別攻撃の犠牲や『軍隊は住民を守らない』という教訓が生まれた原因は何か。私たちは考え続けなければならない」
歴代知事の平和宣言であるが、「沖縄全戦没者追悼式」で沖縄県知事が読むことはメディアで紹介されていたので知っていたが、他人事でなくなったのは、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄戦の実相を学習してきたからだ。
1990年に就任した大田昌秀氏は学徒隊「鉄血勤皇隊」に動員され、戦場や学友の死を目の当たりにした。1991年の宣言では「戦争になってから平和を叫んでも遅すぎるのだ」と主張。1993年には、近隣諸国への日本軍の「加害」にも言及した。
沖縄県営平和祈念公園にある沖縄県平和祈念資料館内にある沖縄戦を模したジオラマで、日本兵が沖縄県民に銃口を向けていたのが、県知事が交代したら、銃口の向きが変わったという有名な話がある。
無論、気づいた人がいて、論議を呼び、元通りになったのかもしれないが、結果の確認はできていない。
ひめゆり平和祈念資料館の展示で歴史の歪曲を企図したのか事実とは異なる発言をした西田昌司参議院議員とその発言に同調した参政党の神谷代表のような右寄り政治家がいて、事実を曲げようとしているとしか思えない。参政党は憲法を国民主権から天皇主権に改めようとしていると耳にしたことがあるくらい、ライトウイングだから騙されているととんでもないことになってしまう。
こういう時、鉄血勤皇隊の隊員にさせられた師範学校男子部の生徒だった大田昌秀さんが健在であれば、西田発言のようなことは起きなかったかもしれない。
沖縄戦を戦い、生き延びた大田昌秀さんに戦争体験がない男が偉そうにものがいえるわけがない。
戦時中、日本軍などがやった加害責任について、発言できるのも鉄血勤皇隊の生き残りである大田昌秀さんなればこそである。
沖縄戦で住民を守るために存在する日本軍が住民を虐殺したことは、取り返しがつかない犯罪である。
国家のために否応なく沖縄戦に巻き込まれてしまった沖縄県民にとって、まさか、日本軍から虐殺されるとは思いもよらないことであっただろう。
こんなでたらめな軍隊が存在したことが怖ろしい。
満州では関東軍に見捨てられた満蒙開拓団の人々が集団自決に追い込まれた。
その満州の関東軍から沖縄の守備隊に加わった兵士たちは、沖縄県民を中国人と同じように蔑視していたことも語り継いでいかなければならない。
とにかく、日本が米国の戦争に巻き込まれそうになっているのは、米軍基地があるからで、関税で要求が高いなら、日米同盟解消に向けて、議論を深め、米軍基地の返還を求めたい。
5月に「ひめゆりの塔」の展示説明を巡り、自民党の西田昌司参院議員が「歴史の書き換え」と発言した問題など歴史認識の歪曲が繰り返される中、平和宣言の読み解きは、沖縄がたどってきた道を知る重要な手だてになる。諸見里さんはこう力を込めた。「無差別攻撃の犠牲や『軍隊は住民を守らない』という教訓が生まれた原因は何か。私たちは考え続けなければならない」
歴代知事の平和宣言であるが、「沖縄全戦没者追悼式」で沖縄県知事が読むことはメディアで紹介されていたので知っていたが、他人事でなくなったのは、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄戦の実相を学習してきたからだ。
1990年に就任した大田昌秀氏は学徒隊「鉄血勤皇隊」に動員され、戦場や学友の死を目の当たりにした。1991年の宣言では「戦争になってから平和を叫んでも遅すぎるのだ」と主張。1993年には、近隣諸国への日本軍の「加害」にも言及した。
沖縄県営平和祈念公園にある沖縄県平和祈念資料館内にある沖縄戦を模したジオラマで、日本兵が沖縄県民に銃口を向けていたのが、県知事が交代したら、銃口の向きが変わったという有名な話がある。
無論、気づいた人がいて、論議を呼び、元通りになったのかもしれないが、結果の確認はできていない。
ひめゆり平和祈念資料館の展示で歴史の歪曲を企図したのか事実とは異なる発言をした西田昌司参議院議員とその発言に同調した参政党の神谷代表のような右寄り政治家がいて、事実を曲げようとしているとしか思えない。参政党は憲法を国民主権から天皇主権に改めようとしていると耳にしたことがあるくらい、ライトウイングだから騙されているととんでもないことになってしまう。
こういう時、鉄血勤皇隊の隊員にさせられた師範学校男子部の生徒だった大田昌秀さんが健在であれば、西田発言のようなことは起きなかったかもしれない。
沖縄戦を戦い、生き延びた大田昌秀さんに戦争体験がない男が偉そうにものがいえるわけがない。
戦時中、日本軍などがやった加害責任について、発言できるのも鉄血勤皇隊の生き残りである大田昌秀さんなればこそである。
沖縄戦で住民を守るために存在する日本軍が住民を虐殺したことは、取り返しがつかない犯罪である。
国家のために否応なく沖縄戦に巻き込まれてしまった沖縄県民にとって、まさか、日本軍から虐殺されるとは思いもよらないことであっただろう。
こんなでたらめな軍隊が存在したことが怖ろしい。
満州では関東軍に見捨てられた満蒙開拓団の人々が集団自決に追い込まれた。
その満州の関東軍から沖縄の守備隊に加わった兵士たちは、沖縄県民を中国人と同じように蔑視していたことも語り継いでいかなければならない。
とにかく、日本が米国の戦争に巻き込まれそうになっているのは、米軍基地があるからで、関税で要求が高いなら、日米同盟解消に向けて、議論を深め、米軍基地の返還を求めたい。
2025年07月05日
本土決戦に備え 少年動員 戦争を終わらせるのは至難
80年前の夏、日本各地で「本土決戦」に向けて緊張が高まっていた。海空戦力が壊滅する中で、軍は少年や女性も大量に動員し、地上で連合国軍を迎え撃つ「最後の戦い」に備えた。当時の生徒らが、切迫する時代の空気を証言した。と戦後80年 昭和百年の連載で7月1日の読売(水野祥、小林隼記者)が伝えている。
本土決戦に備え、15〜60歳の男性と17〜40歳の女性を「国民義勇戦闘隊」に組み込む義勇兵役法が公布されたのは6月23日、沖縄で日本軍の組織的戦闘が終結した日だ。当時の日本の人口約7200万人のうち、約2800万人を動員する算段で、逃れようとすれば、処罰された。
大戦末期の鹿児島県川辺町(現南九州市)で受けた軍事教練の様子を証言するのは前橋竹之さん(93)だ。「ずっと戦争が身近にあったから疑問を感じることはなかった。日本全体が戦争に流されていた」
宮崎県高鍋町の前村二三さん(91)は、学校で集団自決の方法を教わった。地元の中学で講演した時、「もう少し戦争が長引けば、君たちの祖父母は亡くなり、君たちもいなかったかもしれない。
語り継ぐ戦争では、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件から、1941(昭和16)年12月8日の日米開戦、1945(昭和20)年8月15日、天皇がポツダム宣言の受託、無条件降伏し、アジア太平洋戦争は終わった。
最後まで戦争継続を主張する陸軍の出方次第では本土決戦が起きた可能性がある。
防衛省の防衛研究所の千々和泰明・国際紛争史研究室長(46)は「戦争が始まってしまえば、ロシアvs.ウクライナ、ハマスvs.イスラエルと、戦争を終わらせるのは難しい。外交に力を入れ、合理的な安全保障戦略を立てることで戦争を防がなくてはならない」と強調している。そのとおりだ。
戦後80年の2025年の夏、参議院議員選挙が公示された。
期日前投票で、必ず投票してきたのは米国の戦争にまきこまれないためである。
自分の考え方に近い候補者として、選挙区選挙では神奈川県であるが、れいわ新選組の三好亮さん。比例選挙では同じく毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんである。
自民党とその補完勢力が親米であることに対し、二人は米国追随型、米国の植民地あるいは保護領のような日本を真の独立国家にするために頑張ると訴えている。
二人とも、日米地位協定の不平等な点を改正しよう。日本の空を米軍から取り戻そうとも言っているところが心強い。
三好さんは外務省の職員として、ロシア大使館に勤務していたことからロシア語が使えるし、台湾に留学していたから中国語も使えるということで、日本の隣国で、ただ嫌いだと言っていられないエネルギー大国ロシアと輸出入で切っても切れない中国と上手につきあっていかなければならない日本の政治家に欠かせない資質がある。
三好さんを一推しに推しているのはピアノが弾けて、空手を嗜む文化芸術に明るいからで、その演奏は見事なものである。
これまで、国政選挙の候補者で、米国追随型外交ではだめだと明確に発言していた人を知らない。
語り継ぐ戦争で、反米という立場を明らかにしてきたが、米国の戦争に加担させられないようにしていくことが一番求められている。
戦争に巻き込まれないようにしていかなければならない。
というわけで、神奈川県に住む親しい女性4人にお願いしてあるが、何とか当選してもらいたい。
本土決戦に備え、15〜60歳の男性と17〜40歳の女性を「国民義勇戦闘隊」に組み込む義勇兵役法が公布されたのは6月23日、沖縄で日本軍の組織的戦闘が終結した日だ。当時の日本の人口約7200万人のうち、約2800万人を動員する算段で、逃れようとすれば、処罰された。
大戦末期の鹿児島県川辺町(現南九州市)で受けた軍事教練の様子を証言するのは前橋竹之さん(93)だ。「ずっと戦争が身近にあったから疑問を感じることはなかった。日本全体が戦争に流されていた」
宮崎県高鍋町の前村二三さん(91)は、学校で集団自決の方法を教わった。地元の中学で講演した時、「もう少し戦争が長引けば、君たちの祖父母は亡くなり、君たちもいなかったかもしれない。
語り継ぐ戦争では、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件から、1941(昭和16)年12月8日の日米開戦、1945(昭和20)年8月15日、天皇がポツダム宣言の受託、無条件降伏し、アジア太平洋戦争は終わった。
最後まで戦争継続を主張する陸軍の出方次第では本土決戦が起きた可能性がある。
防衛省の防衛研究所の千々和泰明・国際紛争史研究室長(46)は「戦争が始まってしまえば、ロシアvs.ウクライナ、ハマスvs.イスラエルと、戦争を終わらせるのは難しい。外交に力を入れ、合理的な安全保障戦略を立てることで戦争を防がなくてはならない」と強調している。そのとおりだ。
戦後80年の2025年の夏、参議院議員選挙が公示された。
期日前投票で、必ず投票してきたのは米国の戦争にまきこまれないためである。
自分の考え方に近い候補者として、選挙区選挙では神奈川県であるが、れいわ新選組の三好亮さん。比例選挙では同じく毒蝮三太夫こと伊勢崎賢治さんである。
自民党とその補完勢力が親米であることに対し、二人は米国追随型、米国の植民地あるいは保護領のような日本を真の独立国家にするために頑張ると訴えている。
二人とも、日米地位協定の不平等な点を改正しよう。日本の空を米軍から取り戻そうとも言っているところが心強い。
三好さんは外務省の職員として、ロシア大使館に勤務していたことからロシア語が使えるし、台湾に留学していたから中国語も使えるということで、日本の隣国で、ただ嫌いだと言っていられないエネルギー大国ロシアと輸出入で切っても切れない中国と上手につきあっていかなければならない日本の政治家に欠かせない資質がある。
三好さんを一推しに推しているのはピアノが弾けて、空手を嗜む文化芸術に明るいからで、その演奏は見事なものである。
これまで、国政選挙の候補者で、米国追随型外交ではだめだと明確に発言していた人を知らない。
語り継ぐ戦争で、反米という立場を明らかにしてきたが、米国の戦争に加担させられないようにしていくことが一番求められている。
戦争に巻き込まれないようにしていかなければならない。
というわけで、神奈川県に住む親しい女性4人にお願いしてあるが、何とか当選してもらいたい。
2025年07月04日
抑留者の辛苦に光を
戦後80年 昭和百年の読売(戸田貴也記者)の連載、7月2日はシベリア、モンゴルでの抑留者で富山県南砺市の山田秀三さん(107)にスポットを当てている。
終戦当時、中国東北部・錦州で航空燃料の警備にあたっていた時、武装解除後、貨車に乗せられた。奉天付近で女性や子どもが乗った引き揚げ列車とすれ違い、「自分たちは帰れない」と悟った。1945年11月、28歳だった。
哈爾浜駅では逃げようとした18から19歳くらいの3人がソ連兵に目の前で銃殺された。
モンゴル国境のナウシキ駅に着いたが、この間20日ほど食事の配給は一切なく、靴下に隠していたわずかなコメや乾パンで空腹をしのいだ。何十`もカラマツの林を歩き、モンゴル兵に引き渡された。歩いたり、軍用車に乗せられ、草原の中の地下洞窟に作られた収容所に入った。
草原には水がなく、氷点下30度を下回る中、毎朝4キロ先の川まで水を取りに行った。食事は一日一度。雑穀の高粱とラクダの腸の細切れが少し入った雑炊だった。風呂も入れず、不衛生で、同じ分隊の25歳は衰弱して死んだ。
ウランバートルでは、建物の基礎工事にあたった。土地は春になっても1b下まで凍り付いて鉄板のようだった。
飢えと極寒、重労働の「三重苦」を耐え、47年11月、引き揚げ船で函館に辿り着いた。
仲間の慰霊に尽くそうと、98年に全国強制抑留者協会の会員となり、2019年から会長を務めている。
特に地元のシベリア抑留者慰霊碑の建立には心血を注いだ。仲間の供養にモンゴルに足を運んだ。
富山県では約3100人が旧ソ連軍に連行され、強制労働と栄養失調などで約600人が亡くなったという。
富山県高岡市手洗野にある信光寺近くの慰霊碑で、2024年も9月11日に慰霊祭が行われた。
モンゴルでの抑留者は約1万4,000人で、伝染病や栄養失調などで約1700人が死亡した。
シベリアでは、抑留者は毎日、黒パンとカーシャというスープを食べていたと耳にしている。
シベリアと一括りできないほど広くて、収容所は現在のウクライナやカザフスタンさらにはモンゴルと現在のロシアとは別の国に及ぶ。
ソ連とは別の国であるモンゴルの収容所のことは胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』(文春文庫)を読んでいるが、タイトルにもあるように黒パンを食べていたと思いこんでいた。
しかし、富山の山田秀三さんによれば、高粱に羊の腸の細切れが入った雑炊だったそうな。
満州なら高粱が取れたから、雑炊にするということは考えられるので、モンゴルでは、地域によって、黒パンか高粱の雑炊ということだったかもしれない。
実は、シベリア抑留を忘れないために、ロシア製法の黒パンを秋田の大館のサンドリヨンから取り寄せて、毎朝食べているので、モンゴルで黒パンを食べていない収容所があったことは初耳である。
ロシア製法の黒パンはサンドリヨンでしか作っていないというから、大館の人はともかく、首都圏では、食べているひとはほとんどいないのではないか。
モンゴルといえば、大相撲ではモンゴルからやってきた力士の活躍が目立つ。
しかし、大相撲中継をしているNHKでも、モンゴル抑留者のことを取り上げていた記憶はほとんどなかったと記憶する。
モンゴルやウクライナ、そしてカザフスタンとすぐに名前が出てくる国にも収容されていた抑留者のことを思えば、事実関係を語り継ぐ必要がある。
特に、カザフスタンのカラカンダの収容所で炭鉱労働をさせられたことを書いた体験記があるくらいだから、事実関係を語り継ぐことで、戦争を防ぐ意識を高めておくことが肝要だ。
終戦当時、中国東北部・錦州で航空燃料の警備にあたっていた時、武装解除後、貨車に乗せられた。奉天付近で女性や子どもが乗った引き揚げ列車とすれ違い、「自分たちは帰れない」と悟った。1945年11月、28歳だった。
哈爾浜駅では逃げようとした18から19歳くらいの3人がソ連兵に目の前で銃殺された。
モンゴル国境のナウシキ駅に着いたが、この間20日ほど食事の配給は一切なく、靴下に隠していたわずかなコメや乾パンで空腹をしのいだ。何十`もカラマツの林を歩き、モンゴル兵に引き渡された。歩いたり、軍用車に乗せられ、草原の中の地下洞窟に作られた収容所に入った。
草原には水がなく、氷点下30度を下回る中、毎朝4キロ先の川まで水を取りに行った。食事は一日一度。雑穀の高粱とラクダの腸の細切れが少し入った雑炊だった。風呂も入れず、不衛生で、同じ分隊の25歳は衰弱して死んだ。
ウランバートルでは、建物の基礎工事にあたった。土地は春になっても1b下まで凍り付いて鉄板のようだった。
飢えと極寒、重労働の「三重苦」を耐え、47年11月、引き揚げ船で函館に辿り着いた。
仲間の慰霊に尽くそうと、98年に全国強制抑留者協会の会員となり、2019年から会長を務めている。
特に地元のシベリア抑留者慰霊碑の建立には心血を注いだ。仲間の供養にモンゴルに足を運んだ。
富山県では約3100人が旧ソ連軍に連行され、強制労働と栄養失調などで約600人が亡くなったという。
富山県高岡市手洗野にある信光寺近くの慰霊碑で、2024年も9月11日に慰霊祭が行われた。
モンゴルでの抑留者は約1万4,000人で、伝染病や栄養失調などで約1700人が死亡した。
シベリアでは、抑留者は毎日、黒パンとカーシャというスープを食べていたと耳にしている。
シベリアと一括りできないほど広くて、収容所は現在のウクライナやカザフスタンさらにはモンゴルと現在のロシアとは別の国に及ぶ。
ソ連とは別の国であるモンゴルの収容所のことは胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』(文春文庫)を読んでいるが、タイトルにもあるように黒パンを食べていたと思いこんでいた。
しかし、富山の山田秀三さんによれば、高粱に羊の腸の細切れが入った雑炊だったそうな。
満州なら高粱が取れたから、雑炊にするということは考えられるので、モンゴルでは、地域によって、黒パンか高粱の雑炊ということだったかもしれない。
実は、シベリア抑留を忘れないために、ロシア製法の黒パンを秋田の大館のサンドリヨンから取り寄せて、毎朝食べているので、モンゴルで黒パンを食べていない収容所があったことは初耳である。
ロシア製法の黒パンはサンドリヨンでしか作っていないというから、大館の人はともかく、首都圏では、食べているひとはほとんどいないのではないか。
モンゴルといえば、大相撲ではモンゴルからやってきた力士の活躍が目立つ。
しかし、大相撲中継をしているNHKでも、モンゴル抑留者のことを取り上げていた記憶はほとんどなかったと記憶する。
モンゴルやウクライナ、そしてカザフスタンとすぐに名前が出てくる国にも収容されていた抑留者のことを思えば、事実関係を語り継ぐ必要がある。
特に、カザフスタンのカラカンダの収容所で炭鉱労働をさせられたことを書いた体験記があるくらいだから、事実関係を語り継ぐことで、戦争を防ぐ意識を高めておくことが肝要だ。
2025年07月03日
「六名殺シ夢二ウナサレテナラヌ」
「六名殺シ夢二ウナサレテナラヌ」「戦争トラウマ旧日本兵にも」国、調査着手 「遺族らが団体 語り継ぐ」という見出しで、6月30日の読売(浜田喜将記者)が戦後80年、昭和百年の連載で伝えている。
先の大戦での過酷な体験が旧日本兵にもたらした「戦争トラウマ」を見つめ直す動きが広がっている。心をむしばまれて日常生活に支障を来たすケースもありながら、長らく個人の問題とみられていた。
近年、社会の理解が深まり、遺族が苦悩を語り合う取り組みが進むほか、国は7月から初めての企画展を開く。
戦時中、千葉県市川市の国府台陸軍病院に精神疾患で入院していた兵士の「病床日誌」(カルテ)8002人分が千葉県東金市の浅井病院に残っている。
軍は同病院にカルテの焼却を命じたが、軍医を務めていた浅井利勇さん(2000年死去)が院長と共に「後世に残さなければと考え、カルテをドラム缶に入れて埋め、数年後に掘り出し、5年以上かけて全てコピー。以来、浅井さんが開業した浅井病院で保管してきた。
戦争トラウマが広く認知されるきっかけは、1975年に終わったベトナム戦争だ。米国で帰還兵に同様の症状が相次いで本格的な研究が行われ、80年、米国精神医学会がPTSDを疾患として正式に認定。2000年代に入ると、イラクやアフガニスタンへの軍事介入でも帰還兵のPTSDが問題化した。
東京武蔵村山市の黒井秋夫さん(76)は、旧日本兵の遺族らが戦争トラウマについて話し合う団体を発足させた。
厚生労働省も7月中には国立の戦傷病者史料館「しょうけい館」で戦争トラウマのパネル展を始める。
NHK映像の世紀バタフライエフェクト「戦争のトラウマ 兵士たちの消えない悪夢」で、この問題を取り上げていたことがある。
戦争では兵士に限らず、悲惨な体験をした人を戦後も苦しめることになる。
1975年の『愛の嵐』ではナチスの強制収容所で性暴力の加害者と被害者だった男女が戦後、心ならずも再会してしまい、倒錯の関係をに堕ちてしまうというような怖い映画だった。
7月12日から上映される『黒川の女たち』は、満蒙開拓団の娘たち15人がソ連兵からの略奪や性暴力から守ってもらうため、ソ連兵将校に性奴隷として献上されたことを帰国後、体験者が長い沈黙を破り、告発するのだ。
ソ連兵将校がベルトを外す音が耳から離れないということで、こちらもPTSDということになろうか。
先般、書いた三田空襲で下校中の小学生が米軍機のパイロットから機銃掃射を受け、小学生4人と農婦が犠牲となった。
体験者が低空に降下してきたパイロットが笑いながら機銃掃射をしてきたことで、米国に対する恨みが消えない。と語っていた。
戦争が終わって、普通の暮らし、日常を取り戻したら、そのパイロットだって、まともな精神になれば、子ども殺したのだから、苦しまないはずがない。
軍隊は武器を所持しているから、いざとなれば、当然、相手を撃ち殺すだろう。
戦争では撃たなければ、自分が殺されるが、占領地では武器を所持していない民間人だっているから、敵だとみれば、殺してしまうことだってあったはずだ。
しかし、戦後、普通の暮らしに戻れば、戦争中のことだからと言っても、人殺しは人殺しだから、加害者となれば後悔もするだろうし苦悩もするはずだ。
戦争だからということでは、人間として許されないことは許されない。
先の大戦での過酷な体験が旧日本兵にもたらした「戦争トラウマ」を見つめ直す動きが広がっている。心をむしばまれて日常生活に支障を来たすケースもありながら、長らく個人の問題とみられていた。
近年、社会の理解が深まり、遺族が苦悩を語り合う取り組みが進むほか、国は7月から初めての企画展を開く。
戦時中、千葉県市川市の国府台陸軍病院に精神疾患で入院していた兵士の「病床日誌」(カルテ)8002人分が千葉県東金市の浅井病院に残っている。
軍は同病院にカルテの焼却を命じたが、軍医を務めていた浅井利勇さん(2000年死去)が院長と共に「後世に残さなければと考え、カルテをドラム缶に入れて埋め、数年後に掘り出し、5年以上かけて全てコピー。以来、浅井さんが開業した浅井病院で保管してきた。
戦争トラウマが広く認知されるきっかけは、1975年に終わったベトナム戦争だ。米国で帰還兵に同様の症状が相次いで本格的な研究が行われ、80年、米国精神医学会がPTSDを疾患として正式に認定。2000年代に入ると、イラクやアフガニスタンへの軍事介入でも帰還兵のPTSDが問題化した。
東京武蔵村山市の黒井秋夫さん(76)は、旧日本兵の遺族らが戦争トラウマについて話し合う団体を発足させた。
厚生労働省も7月中には国立の戦傷病者史料館「しょうけい館」で戦争トラウマのパネル展を始める。
NHK映像の世紀バタフライエフェクト「戦争のトラウマ 兵士たちの消えない悪夢」で、この問題を取り上げていたことがある。
戦争では兵士に限らず、悲惨な体験をした人を戦後も苦しめることになる。
1975年の『愛の嵐』ではナチスの強制収容所で性暴力の加害者と被害者だった男女が戦後、心ならずも再会してしまい、倒錯の関係をに堕ちてしまうというような怖い映画だった。
7月12日から上映される『黒川の女たち』は、満蒙開拓団の娘たち15人がソ連兵からの略奪や性暴力から守ってもらうため、ソ連兵将校に性奴隷として献上されたことを帰国後、体験者が長い沈黙を破り、告発するのだ。
ソ連兵将校がベルトを外す音が耳から離れないということで、こちらもPTSDということになろうか。
先般、書いた三田空襲で下校中の小学生が米軍機のパイロットから機銃掃射を受け、小学生4人と農婦が犠牲となった。
体験者が低空に降下してきたパイロットが笑いながら機銃掃射をしてきたことで、米国に対する恨みが消えない。と語っていた。
戦争が終わって、普通の暮らし、日常を取り戻したら、そのパイロットだって、まともな精神になれば、子ども殺したのだから、苦しまないはずがない。
軍隊は武器を所持しているから、いざとなれば、当然、相手を撃ち殺すだろう。
戦争では撃たなければ、自分が殺されるが、占領地では武器を所持していない民間人だっているから、敵だとみれば、殺してしまうことだってあったはずだ。
しかし、戦後、普通の暮らしに戻れば、戦争中のことだからと言っても、人殺しは人殺しだから、加害者となれば後悔もするだろうし苦悩もするはずだ。
戦争だからということでは、人間として許されないことは許されない。
2025年07月02日
砂川闘争70年 「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」
「砂川闘争70年『記憶』も記事に」という見出しのコラムが「東京春秋」325というタイトルで6月29日の読売にあった。畑武尊(46)と記者が紹介されている。
人事異動で20年ぶりに最初の赴任地立川支局で働いている。
戦後80年の2025年、立川といえば、米軍基地の拡張に反対した「砂川闘争」が思い浮かぶ。
1955年5月、米軍が立川基地の滑走路の延長を計画し、砂川町(現・立川市)に通告。これに対し地権者の農民は反対同盟を結成し、町ぐるみの反対運動に発展した。
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」をスローガンに同盟や学生らが警官隊と衝突を繰り返した。
運動が実り米軍は68年、延長中止を発表。返還された土地は自衛隊駐屯地や国営昭和記念公園になった。
2025年は闘争から70年。6月7日に市内で記念の集会が開かれた。
集会では闘争に参加した人、子孫が登壇したのを見て、当時の自分を責めた。
事件の取材に終われ、実際に反対運動を担った農家の話に耳を傾け、記事にするのを怠っていたことに気づいた。
戦後80年でもあるので、現在の基地問題につながる「砂川」の記憶も記事にしていく。と結ぶ。
米軍立川基地が返還され、立川駅北口再開発で整備された駅前は賑やかで、東京地裁八王子支部が立川に移転するくらい、今や三多摩随一の商業都市になった立川。
立川といえば、高島屋にキノシネマがあって、椅子が快適で上映作品がまたためになる作品ばかりという優れた映画館があり、東京の映画館に負けていないのだ。
加齢による心身の著しい衰えで行かれなくなってしまったので、過去のことになるが、正月恒例の箱根駅伝の予選会が自衛隊立川駐屯地と昭和記念公園で開催されるようになってから、毎年応援に行っていたことがある。
国営の昭和記念公園はそれは素晴らしい公園で立川の知名度アップに貢献している。
語り継ぐ戦争の立場からは、立川といえば、戦後の米軍の進駐で、生きるために昨日まで敵だった鬼畜米兵相手に春を鬻いだ「星の流れに」のヒロインのようなパンパンと呼ばれた女性たちのことを書いておかなければならない。
1945(昭和20)年9月、立川に進駐してきたのは米軍 第1騎兵師団 。立川飛行場は接収されて米軍基地となった。 米軍進駐直後から立川の街頭には需要と供給というか街娼が立ち始めたという。
立川には戦前から「錦町楽天地」、「羽衣新天地」という花街があったことも生きていくために立ちんぼが立つ下地があったといえるかもしれない。
小平市立図書館/こだいらデジタルアーカイブ、米軍基地と社会問題によれば、立川基地周辺では、米軍人相手に春をひさぐ「パンパン」と呼ばれた「夜の女」が集まり、最高時の1952年には3000人にもおよび、府中や福生をはじめとする多摩地区全体では7000名ともいわれた(近現代編史料集B No.四五五)。
立川だけでなく、府中には米軍の通信基地、福生には米軍の横田基地があったことで、商売をする女性が集まった。
アジア太平洋戦争に敗れた日本政府は、日本兵が侵略先で現地女性に性的暴行したことや、満州で日本人女性がソ連兵に性的暴行されたことから、婦女子を守るためとして、米兵専属の慰安婦を集めたR・A・A(特殊慰安施設協会)を用意した。
梅毒などの性感染症が蔓延し、米国本国から怒られた進駐軍は、やがて、オフリミットとして、女性たちを追い出したことから、女性たちが基地の街に流れたという説があるくらいである。
砂川闘争に話を戻す。
日米同盟など日本の防衛に全く機能しないことが明らかになった戦後80年。
米軍基地は徐々に返還をしてもらい、跡地は自衛隊が利用するとして、独立国家としての矜持を市民ひとり一人がもたなければならない。
本土、沖縄共に治外法権の米軍基地が多すぎる。
立川が発展したのは、砂川闘争で立川基地が返還されたからではないか。
砂川闘争から70年、戦後80年、米軍基地と戦った市民にエールをおくりたい。
人事異動で20年ぶりに最初の赴任地立川支局で働いている。
戦後80年の2025年、立川といえば、米軍基地の拡張に反対した「砂川闘争」が思い浮かぶ。
1955年5月、米軍が立川基地の滑走路の延長を計画し、砂川町(現・立川市)に通告。これに対し地権者の農民は反対同盟を結成し、町ぐるみの反対運動に発展した。
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」をスローガンに同盟や学生らが警官隊と衝突を繰り返した。
運動が実り米軍は68年、延長中止を発表。返還された土地は自衛隊駐屯地や国営昭和記念公園になった。
2025年は闘争から70年。6月7日に市内で記念の集会が開かれた。
集会では闘争に参加した人、子孫が登壇したのを見て、当時の自分を責めた。
事件の取材に終われ、実際に反対運動を担った農家の話に耳を傾け、記事にするのを怠っていたことに気づいた。
戦後80年でもあるので、現在の基地問題につながる「砂川」の記憶も記事にしていく。と結ぶ。
米軍立川基地が返還され、立川駅北口再開発で整備された駅前は賑やかで、東京地裁八王子支部が立川に移転するくらい、今や三多摩随一の商業都市になった立川。
立川といえば、高島屋にキノシネマがあって、椅子が快適で上映作品がまたためになる作品ばかりという優れた映画館があり、東京の映画館に負けていないのだ。
加齢による心身の著しい衰えで行かれなくなってしまったので、過去のことになるが、正月恒例の箱根駅伝の予選会が自衛隊立川駐屯地と昭和記念公園で開催されるようになってから、毎年応援に行っていたことがある。
国営の昭和記念公園はそれは素晴らしい公園で立川の知名度アップに貢献している。
語り継ぐ戦争の立場からは、立川といえば、戦後の米軍の進駐で、生きるために昨日まで敵だった鬼畜米兵相手に春を鬻いだ「星の流れに」のヒロインのようなパンパンと呼ばれた女性たちのことを書いておかなければならない。
1945(昭和20)年9月、立川に進駐してきたのは米軍 第1騎兵師団 。立川飛行場は接収されて米軍基地となった。 米軍進駐直後から立川の街頭には需要と供給というか街娼が立ち始めたという。
立川には戦前から「錦町楽天地」、「羽衣新天地」という花街があったことも生きていくために立ちんぼが立つ下地があったといえるかもしれない。
小平市立図書館/こだいらデジタルアーカイブ、米軍基地と社会問題によれば、立川基地周辺では、米軍人相手に春をひさぐ「パンパン」と呼ばれた「夜の女」が集まり、最高時の1952年には3000人にもおよび、府中や福生をはじめとする多摩地区全体では7000名ともいわれた(近現代編史料集B No.四五五)。
立川だけでなく、府中には米軍の通信基地、福生には米軍の横田基地があったことで、商売をする女性が集まった。
アジア太平洋戦争に敗れた日本政府は、日本兵が侵略先で現地女性に性的暴行したことや、満州で日本人女性がソ連兵に性的暴行されたことから、婦女子を守るためとして、米兵専属の慰安婦を集めたR・A・A(特殊慰安施設協会)を用意した。
梅毒などの性感染症が蔓延し、米国本国から怒られた進駐軍は、やがて、オフリミットとして、女性たちを追い出したことから、女性たちが基地の街に流れたという説があるくらいである。
砂川闘争に話を戻す。
日米同盟など日本の防衛に全く機能しないことが明らかになった戦後80年。
米軍基地は徐々に返還をしてもらい、跡地は自衛隊が利用するとして、独立国家としての矜持を市民ひとり一人がもたなければならない。
本土、沖縄共に治外法権の米軍基地が多すぎる。
立川が発展したのは、砂川闘争で立川基地が返還されたからではないか。
砂川闘争から70年、戦後80年、米軍基地と戦った市民にエールをおくりたい。
2025年07月01日
元ひめゆり98歳「亡き友の分まで」悲劇伝える
戦後80年、自民党の西田昌司参議院議員が沖縄のひめゆり平和祈念資料館の展示について、事実と異なる発言をし、参政党の神谷党首がこの発言に同調した演説をしたことが伝えられ、沖縄県民を怒らせた。
沖縄慰霊の日、沖縄県糸満市の「ひめゆりの塔」では慰霊祭が営まれ、生き残ったことが罪になる―。そんな時代を仲里正子さん(98)は思い出す。と6月24日の読売が伝えている。
米軍の沖縄上陸が迫る1945年3月23日、仲里正子さんが通う沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒や教員240人は学校から5`離れた沖縄陸軍病院に集められた。
病院には5月25日に撤退命令が下る。生徒たちは糸満市に点在する6か所のガマに散った。
6月18日「伊原第一外科壕」で「学徒隊は解散する。自らの判断で行動せよ」
240人のうち、半数超の136人が亡くなった。その8割超(117人)が解散後の犠牲者が占める。
学徒隊の33回忌を終え、同窓会が82年にひめゆり平和祈念資料館の設立事業に取りかかると、「生き残った私たちが亡くなった友達の分まで絶対に伝えるんだ」と約30人の仲間と7年をかけて資料集めや調査に力を尽くした。
以来、語り部として自分の体験を伝えてきた。
23日、資料館は開館36年を迎えた。
生き残った者の使命として、戦争を否定し、平和を願う心を次世代へと引き継ぐ。
1985年1月、初めて沖縄を訪れた。
米軍が支配している沖縄だから、レンタカーという考えは全く浮かばず、タクシーで南部戦跡を周った。
ひめゆりの塔にも当然のこととしてお参りするために案内してもらったが、当時は、ひめゆり平和祈念資料館はできていなくて、訪れた時期もあったかもしれないが、賑やかという雰囲気ではなかった。
ひめゆりが女子学徒なら、男子学徒の健児の塔にも案内してもらったが、こちらもお参りする人は少なかった。
摩文仁の県営平和祈念公園に現在の平和祈念資料館ができたのは2000年4月1日。資料館は1975(昭和50)年6月11日に開設されていた。
鉄の暴風をイメージしたという平和の礎は、1995年6月23日にできたということで、こちらもまだなかった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄を訪れたのは2011年の夏のことだった。2度目の沖縄は26年経って南部戦跡も整備され、資料館も見応えあったが、平和の礎には驚かされた。
敵味方なく、民族差別もない、素晴らしい理念の下にできていて感心しきりであった。
ひめゆり平和祈念資料館では、元学徒隊の宮城喜久子さんがガイドの当番だったかしていて、個人的にはいろいろ教えてもらいたいと願っていたが、夏休みで入場者が多く、そんなわがままは通らない雰囲気だった。
語りべの体験談も聞くことができたが、80年経って、自民党の西田昌司参議院議員、参政党の神谷党首の歴史を曲げてしまおうとするかの様な発言に対し、沖縄県民同様、怒りを禁じえない。
沖縄戦は日本軍が本土の防波堤、本土決戦の時間稼ぎの持久戦を企図したため、軍民混在で県民の犠牲者が多数でた。
「沖縄県民かく戦えり」と沖縄戦を戦った県民を称えた大田實海軍少将が自決する前に海軍次官に宛てた電文がある。
西田昌司参議院議員、神谷党首は恥をしるべきである。
沖縄戦ではひめゆりなどの女子学徒隊、鉄血勤皇隊や通信隊などの男子学徒隊までも動員されたのである、
感謝するしかない。
沖縄慰霊の日、沖縄県糸満市の「ひめゆりの塔」では慰霊祭が営まれ、生き残ったことが罪になる―。そんな時代を仲里正子さん(98)は思い出す。と6月24日の読売が伝えている。
米軍の沖縄上陸が迫る1945年3月23日、仲里正子さんが通う沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒や教員240人は学校から5`離れた沖縄陸軍病院に集められた。
病院には5月25日に撤退命令が下る。生徒たちは糸満市に点在する6か所のガマに散った。
6月18日「伊原第一外科壕」で「学徒隊は解散する。自らの判断で行動せよ」
240人のうち、半数超の136人が亡くなった。その8割超(117人)が解散後の犠牲者が占める。
学徒隊の33回忌を終え、同窓会が82年にひめゆり平和祈念資料館の設立事業に取りかかると、「生き残った私たちが亡くなった友達の分まで絶対に伝えるんだ」と約30人の仲間と7年をかけて資料集めや調査に力を尽くした。
以来、語り部として自分の体験を伝えてきた。
23日、資料館は開館36年を迎えた。
生き残った者の使命として、戦争を否定し、平和を願う心を次世代へと引き継ぐ。
1985年1月、初めて沖縄を訪れた。
米軍が支配している沖縄だから、レンタカーという考えは全く浮かばず、タクシーで南部戦跡を周った。
ひめゆりの塔にも当然のこととしてお参りするために案内してもらったが、当時は、ひめゆり平和祈念資料館はできていなくて、訪れた時期もあったかもしれないが、賑やかという雰囲気ではなかった。
ひめゆりが女子学徒なら、男子学徒の健児の塔にも案内してもらったが、こちらもお参りする人は少なかった。
摩文仁の県営平和祈念公園に現在の平和祈念資料館ができたのは2000年4月1日。資料館は1975(昭和50)年6月11日に開設されていた。
鉄の暴風をイメージしたという平和の礎は、1995年6月23日にできたということで、こちらもまだなかった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄を訪れたのは2011年の夏のことだった。2度目の沖縄は26年経って南部戦跡も整備され、資料館も見応えあったが、平和の礎には驚かされた。
敵味方なく、民族差別もない、素晴らしい理念の下にできていて感心しきりであった。
ひめゆり平和祈念資料館では、元学徒隊の宮城喜久子さんがガイドの当番だったかしていて、個人的にはいろいろ教えてもらいたいと願っていたが、夏休みで入場者が多く、そんなわがままは通らない雰囲気だった。
語りべの体験談も聞くことができたが、80年経って、自民党の西田昌司参議院議員、参政党の神谷党首の歴史を曲げてしまおうとするかの様な発言に対し、沖縄県民同様、怒りを禁じえない。
沖縄戦は日本軍が本土の防波堤、本土決戦の時間稼ぎの持久戦を企図したため、軍民混在で県民の犠牲者が多数でた。
「沖縄県民かく戦えり」と沖縄戦を戦った県民を称えた大田實海軍少将が自決する前に海軍次官に宛てた電文がある。
西田昌司参議院議員、神谷党首は恥をしるべきである。
沖縄戦ではひめゆりなどの女子学徒隊、鉄血勤皇隊や通信隊などの男子学徒隊までも動員されたのである、
感謝するしかない。