2025年06月30日

三田空襲で機銃掃射、パイロットの顔が見えた

 地域に残る戦争体験を次世代に伝えようと、終戦直前の1945年7月に起きた「三田空襲」の体験者の話を聞く会が28日、三田市のまちづくり協働センター(駅前町)で開かれた。当時、三田国民学校(現・三田小)3年生だった志儀喜代美さん(88)が、80年前に米軍機が間近に迫った体験や戦中の暮らしを語り、約60人が熱心に聴き入った。と6月29日の読売が伝えている。

 45年7月19日午前、三田駅付近を低空飛行していた米軍機2機の機銃掃射により、空襲警報を受けて隊列を組み下校するなどしていた三輪国民学校(現・三輪小)の児童4人と農作業中の女性1人が犠牲となった。

 今回の会は、教育者や芸術家らでつくる団体「SUNPEACE」が終戦80年に合わせて企画した第1弾。団体はこれまで空襲に遭った人の体験談を動画に収め、ユーチューブに投稿してきた。

 この日は団体の荒井隆一理事(すずかけ台小校長)が、米軍機の飛来状況や三輪町(現・三田市)役場の半鐘にも銃弾が貫通したこと、高平村(同)上空で米軍機と戦い亡くなった日本軍戦闘機の隊員の話などを説明した。

 続いて、大向勲理事長(武庫小校長)が聞き役を務め、志儀さんが国民学校時代の思い出や金属供出など戦中の暮らしぶりを話した。空襲当日は指定場所へ逃げるために学校を出た直後に、米軍機が接近。上級生らしき人の「伏せろ」の声で慌ててくぼみに身を潜めたが、白く目立つカバンを隠し、泣きべそをかきながら通り過ぎるのを待ったという。

 志儀さんは「当時の出来事を届けられる最後の年代かな。一番大事な命をなくす戦争を防ぐよう、若い人にお伝えできたらと思う」と話をしめくくった。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2010年11月6日、大阪城を訪れたとき、ボランティアガイドとして、城内を案内していただいた植野雅量師とその後も2023年11月に90歳で亡くなられるまで交流が続いた。
 戦災は無論のこと、難波の宮など大阪に関することを幅広く教えて頂いたことから、語り継ぐ戦争のわが師と仰いでいた。
 このことは2024年10月、大阪に出向き、仏前にて「手向」を吹いたことを書いている。

 その植野雅量師が大阪城内を案内していただいた時だったか、小学生の時、米軍の機銃掃射を受け、一緒にいた友達が殺されたということを語り継ぐ戦争だからということで教えていただいた。

 当時は、植野雅量師は大阪の人だと信じていたので、大阪のどこの出来事だったのだろうか。いずれ調べればわかるかも。と心に留めておいた。

 お付き合いが進んだある時、故郷兵庫県の三田の名産だというハムの詰め合わせを頂戴したことで、大阪ではなかったと改めて思った。
 
 沖縄戦のことを連日書いている時、ふと、兵庫の三田の空襲のことを調べたくなり、「SUNPEACE」が三田の空襲の動画をYouTubeにアップしているのをみつけてしまった。

 2023年11月に90歳で亡くなったということは、80年前なら小学校6年生だったかもしれない。
 というわけで、関係者と連絡が取れれば、植野雅量師の機銃掃射の体験を地元の方と確認してみたいと願っている。
 米軍パイロットは非武装のしかも、小学生を機銃で撃ち殺そうとした時、笑っていたというが、事実なら、語り継ぐ戦争の立場である自分が反米になったことを理解してもらえるのではないか。