2025年06月28日

沖縄戦で語り継ぐべき記憶

 NHK「木村多江の、いまさらですが」で、沖縄戦〜語り継ぐべき記憶〜をテーマにしていた。

 「首里城の地下に眠る、日本軍第32司令部壕跡の保存・公開を求める活動が行われています。自ら学徒隊として沖縄戦に動員された瀬名波榮喜会長にその意義を聞きます。沖縄戦では多くの戦争孤児が生まれました。その経緯や戦後の苦労を9歳で家族を失った徳田ユキさんに話していただきます。THE BOOMの「島唄」は、沖縄戦を語り継ぐため作られました。作詞・作曲した宮沢和史さんに込めた思いを伺い歌っていただきます。」と㏋にある。


 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で沖縄を訪れて、首里城はガイド兼ドライバーの外間さんに案内してもらいながら見学し、沖縄の守備隊32軍の司令部壕跡のことも教えてもらった。
 その首里城が2019年だったか、火災で焼けてしまったニュースが流れた。
 沖縄の守備隊としての32軍司令部が首里城の地下にあったが、4月10日の嘉数高地、5月9日の前田高地、5月18日シュガーローフ、ホースシュー、ハーフムーンヒルの攻防戦で勝利した米軍の攻勢が続き、5月22日、32軍は司令部を南部に撤退することを決定した。
 このことが、南部戦跡と称されるほど、南部に戦跡が集中し、軍民混在で、県民に多大な犠牲が生じる要因となった。

 沖縄戦では米軍との攻防戦で学徒まで動員され、ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊、通信隊として、負傷兵の看護や突撃作戦や通信などを担わされた。
 激戦地となった糸満市の米須地区などでは一家全滅の世帯が多数出たことで、屋敷跡に祠が設置され、心ある人たちがお参りしている。
 一家全滅同様、悲惨な出来事として、戦災孤児が多数生まれた。
 戦後、基地の街と化した沖縄では、兵隊の子どもを妊娠、出産する女性が多数いて、母子を捨て帰国してしまった男たちに養育料を支払わせようと活躍したアネット・キャラゲイン弁護士がいたことも特筆されなければならない。

 島唄を作詞・作曲した宮沢和史さんはアジア太平洋戦争、それも、わが国で地上戦の攻防が起きた沖縄戦のことを知ったのはひめゆりの塔に行ってからで、沖縄戦のことを知らなかった半生を恥じ、怒りと共に沖縄戦での鉄の暴風と呼ばれた艦砲射撃のことなどを歌詞に込めたそうな。

 沖縄戦といえば、日本軍が本土決戦のための防波堤、時間稼ぎとして持久戦に持ち込んだために沖縄県民の犠牲者が爆発的に増えてしまった。
 首里城地下の司令部を南部に後退させたことから軍民混在での逃避行となったことが県民の犠牲者を増やし、一家全滅の世帯が多数でてしまった。

 とにかく、戦争をやらないようにする。
 このことに尽きる。
 沖縄戦を教訓にすることだ。