2025年06月21日

決死の投降 白旗の少女 「命どぅ宝」伝える

 語り継ぐ戦争で自分の心を激しく揺さぶられたのは破れたモンペに素足、木の根に結ばれた白い布を掲げた「白旗の少女」を被写体にした写真である。
 6月17日の読売が戦後80年、昭和百年 沖縄で、白旗の少女こと比嘉富子さん(87)が戦野をさまよい、生き延びた遠い記憶をたどる。

 <ハヤク デテキテクダサイ。バクダンヲ ナゲコミマス>

 1945年6月25日、暗いガマに片言の日本語が響いた。降伏を呼びかける米兵の声だ。その中には、ガマで出会った両手足がないおじいさんと目が不自由なおばあさん、そして7歳の富子さんの3人が潜んでいた。

 いつもは優しいおじいさんが「これを結びつけるものを持ってきなさい」と硬い声で言った。おばあさんがおじいさんの白い 褌ふんどし を手にしている。富子さんは木の根を竿のようにし、しっかりと結んだ。

 「それは世界で約束された安全の印。持って外に出なさい」。おじいさんがそう促した。でも富子さんは米軍に捕まれば殺されると思っていた。「嫌だ。一緒に死にたい」とだだをこねると大声で叱られた。おばあさんも「早くこれを持ってお逃げ」とせかした。

 「外に出たら、白旗を掲げるんだ。高く、まっすぐにだよ」。その言葉を背に出口に向かった。まず白布を結びつけた枝をそっと出す。続いて顔を出して周りの様子をうかがう。そして一歩、また一歩とガマの外に踏み出した――。

 母は病死、父は食料を探しに出たまま戻らず、兄は流れ弾を受け事切れた。
 連れて行かれた広場で2人の姉と再会を果たす。
 元県知事の大田昌秀さんの著書で紹介され、広く知られるようになった「白旗の少女」が自分であることを名乗り出たのは49歳のときだった。
 その後、撮影したカメラマンとも米国で再会し、ドラマ化もされた。

 「この世で一番大切なのは人の命なんだよ。富子の命は生んでくれたお父さんやお母さんのものでもある。大事に生きなさい」という「命どぅ宝」を次世代に語り継いでいきたいと願う。
 「わしたちは死んでも、富子の心に生き続けることができる」と言い残した2人の思いに応えたいと。


 白旗の少女こと比嘉富子さんが助かったのは両手足がないおじいさんと目が不自由なおばあさんがガマから出るように背中を押してくれたからにほかならない。
 白旗を掲げることで米軍に撃たれないことなど7歳の子どもが知る由もないが、二人が死出の旅への道連れにすることなく「命どぅ宝」の言葉を実践してくれたおかげである。

 沖縄では「命どぅ宝」を文字通り理解している人がいたにもかかわらず、日本軍の幹部には全く理解していないどころか、自分たちは生き残って、若い人に特攻作戦で死ぬように命じたのである。

 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、自分なりに悟ったことは死は誰の身の上にもやってくるが、死者は生者の心の中で生きることができるということだ。

 ガマで両手足がないおじいさんと目が不自由なおばあさんが7歳の富子さんを生かしたことで、富子さんの心の中で生き続けることができたのではないだろうか。

 沖縄戦では9万4000人もの一般県民が戦闘に巻き込まれ、死亡した。
 最大のお要因は「時間稼ぎ」のための持久戦を採用したこと。首里の司令部に米軍が迫った5月22日、南に撤退して戦い続ける方針を決定。住民は追い詰められた末に集団自決を余儀なくされたほか、方言が分からないという理由でスパイの嫌疑をかけられ日本軍に殺害された。
 44年、政府は県民10万人を県外に避難させる方針決めたが、実際に疎開したのは約7万人にとどまる。
 疎開では学童疎開船「対馬丸」が米軍の潜水艦に撃沈され、児童ら約1500人が死亡した。

 「生きる」ということは本当に大変なことであるが、「命どぅ宝」の言葉通り、人の命は紛れもなく大切なものであるということを痛感させられた。