2025年06月20日

沖縄に残る1900dの不発弾処理

 [戦後80年 昭和百年]で、読売が語り継ぐ戦争は、6月19日沖縄<下>として沖縄に残る1900dの不発弾の処理にスポットがあてられている。
 710人――。戦後、沖縄で爆発した不発弾で犠牲になった人の数だ。降り注いだ米軍の砲弾や爆弾は、日本本土(16万トン)を上回る20万トンに及び、なお約1900トンが残る。すべて処理するのには、さらに数十年が必要だ。
 不発弾の爆発事故を目撃証言したのは、終戦翌年の1946年夏、石垣島の青空に響いていた子どもたちの歓声が悲鳴に変わったと語った当時小学3年だった田本徹さん(87)。
 
 75年5月、小2だった知念正義さん(57)(沖縄県南城市)は、「煙が上がっている。見に行こう」と友達に誘われ、海岸に行った。突然、爆発音と火柱にのみ込まれた。真っ赤に燃えた金属片が顔に張りつき、皮膚が焼ける「ジュッ」という音を聞いた。「痛い、痛い」と叫びながら用水路に顔を突っ込む。お気に入りの黄色のシャツは、蜂の巣のように穴だらけになった。

 知念さんは医師から「この傷は残る」と告げられた。鏡でケロイド状の痕を見るたびに涙があふれた。数回に及ぶ整形手術など治療に数百万円を要した。

 沖縄に全国初となる陸上自衛隊の不発弾処理隊ができたのは74年だ。この年、那覇市で幼児ら4人が死亡、34人が重軽傷を負う事故が起き、社会を 震撼させた。

 「安心して暮らせる島をこの手で取り戻したい」。唯一の沖縄出身の隊員で、1000回を超える処理経験を持つ大宜見朝也1曹(46)の願いだ。
 激戦地だった本島南部の 豊見城市で生まれた。高校の同級生の弟は不発弾の事故で片方の目を失明。「地元に貢献したい」と危険な任務に手を挙げた。

  手榴弾から大型の爆弾まで。多いときは1日6回の緊急出動をこなす。現場に入るときの緊張感や恐怖心に慣れることはない。それでも「一発一発を安全に処理して、沖縄から悲惨な事故をなくす」と自らを奮い立たせる。


 紙面で紹介されていたのは、本土と較べても小さな島でありながら、本土より多い20万dもの爆弾を投下された沖縄で不発弾が爆発した現場に居合わせた2人の証言と安心して暮らせる島にとの願いで自衛隊で不発弾処理に貢献したいという沖縄出身の自衛隊員である。

 不発弾処理という一つ間違えれば爆発してしまう非常に危険な任務に就いて、頑張っている自衛隊員には頭が下がるし、敬意を表してエールをおくりたい。

 石垣島の田本さんは、三兄が鉄血勤皇隊員として少年でありながら、日本軍の命令で動員されて戦死している。母と妹は日本軍の命令で逃れた山中でマラリアに感染し死亡し、乳飲み子だった弟もまた亡くなっている。
 自身は米軍の機銃掃射を受け、殺されそうになったことがある。パイロットと目が合ったというのだ。

 大阪城で戦災のガイドをしていただいた植野師も、機銃掃射を受け、一緒にいた友達が殺されたことは絶対忘れられないと証言をしてくれたことがあった。

 少年たちまで日本軍の動員命令で鉄血勤皇隊員として多数が犠牲となった沖縄戦。
 戦争が終わっても、不発弾処理が終わらないうちは、本当の意味での戦後とは思えない。

 6月23日がもうまもなくやってくる。
 1972年5月、沖縄は米軍の統治から日本に返還されたが、戦後、占領されたままの基地はそのまま、治外法権の米軍基地として存在している。
 米兵は相変わらず、沖縄の女性たちを襲い性的暴行しているが、身柄は米軍基地が押さえてしまう。日米地位協定の不平等を自民党政権は改めるように米国に申し入れたことがない。

 沖縄県民は自分たちの置かれている立場に目覚めるべきだ。
 日本政府に反省する気持ちがないことは辺野古の海を埋め立て、新しい基地を建設していることで証明されている。
 しかも、沖縄戦で犠牲となった遺骨が収集されていない土だというのだから、罰当たりなことをするものだ。