語り継ぐ戦争に力を入れている読売社会部。戦後80年、昭和百年 沖縄 上に続き、6月18日の中では激戦を生き残った日米の兵士の証言だった。
1945年4月1日、米軍が本島に上陸すると、海軍航空隊の整備兵だった 三枝利夫さん(97)(兵庫県佐用町)は、夜襲をかける「第一 斬込隊」に組み入れられた。
17歳の若者が受け取ったのは、米軍が撃ち込んだ砲弾の破片をくくりつけた 竹槍に 手榴弾、自決用の青酸カリと日の丸の鉢巻きだった。爆薬を詰めた木箱を渡された兵士もいた。
6月上旬。3人1組になり、雲一つない月明かりの那覇近郊を進む。弾薬を満載した米軍のトラックを見つけた。同行した一等兵が爆薬で攻撃しようとしたとき、目と鼻の先で米兵の銃が火を噴いた。一等兵はばたりと倒れ、そのまま動かなくなった。
もう一人が逃亡し、一人きりになり、司令部のある南部を目指した。腐乱して膨れあがった遺体に足を取られ、何度も転んだ。途中で逃げ込んだ壕で耳にしたのは、故郷・兵庫の言葉だった。「君も兵庫か。懐かしいなあ」
ろうそくの明かりに浮かんだ丸眼鏡の主は島田 叡 。内務官僚を経て沖縄戦の直前に知事となり、住民の避難や食糧の確保に奔走し、後世「島守」と呼ばれることもある人物だ。
その後、ガマを出て、彷徨し米軍に投降した時は9月になっていた。
故郷に帰ってからも長らく沖縄で戦ったと口にできなかった。「島全体を戦場にして、多くの住民を道連れにしてしまった」。そのことが今も苦痛だ。
本島南部の丘陵地帯「シュガーローフ」は最激戦地の一つだ。1週間の攻撃で約2662人の米兵が死傷したとされ、丘陵は焦土と化した。
その戦いに加わり、2度にわたって負傷した元米海兵隊員のウォルター・ラソタさん(99)が悲しげな表情でこう言った。「あの小さな島であまりに多くの命が奪われた」
ペンシルベニア州出身。44年に入隊した後、第6海兵師団の一員として、南太平洋のガダルカナル島から意気揚々と沖縄へ出撃した。1か月後の45年5月にたどり着いたのは、至近距離で手榴弾が飛び交う「地獄の丘」だった。
米軍も深手を負った。戦死者は1万2520人に上り、6月18日には、摩文仁北西の丘で米軍の司令官サイモン・バックナー中将が日本軍の攻撃で死亡する。
爆弾の破片を摘出する手術を受け、約1か月後に前線に戻った。しかし顔見知りの兵士は誰も残っていない。右腕を撃ち抜かれて再び戦線を離脱し、みたび前線に立ったとき、所属部隊約290人のうち、生き残りはわずか8人だった。
「戦争はどれほど残酷か。沖縄戦は今を生きる全ての人にとっての教訓だ」とあれから80年で、この春、慰霊の旅で地獄の丘に立ち語る。
昨日、沖縄戦の攻防の激戦地として、前田の戦い、シュガーローフの戦い、そして、ハーフムーンヒルの戦いを取り上げた。
首里の司令部を守る戦いとしては、シュガーローフと、その南側にあるホースシュアそして東側に位置するハーフムーンヒルでの攻防があった。
シュガーローフといえば、砂糖の塊みたいなことかなと思っていたが、摺鉢山のような比喩で使われていたらしい。
シュガーローフの戦いは1945年5月12日から18日にかけての攻防で5000人以上の犠牲者がでたが、米軍の戦死傷者が2662人だというほどの米軍にとっても激戦で、まさに「地獄の丘」だった。
「Battle of Okinawa」によれば、「司令部はシュガーローフ陥落によって首里を放棄し、本島南部への撤退を決定するがそれを知った当時の島田叡県知事が司令部に懇願する
『軍が南部に移れば、南部一帯に避難した三十万近くの住民が戦禍に巻き込まれる』
しかし5月22日から、撤退作戦は実施されその結果、沖縄戦の象徴といわれる10万人あまりの住民を巻き込んだ泥沼の戦いへと進んでいった」
シューガーローフ、ハーフムーンヒルで172体の遺骨を掘ったガマフヤーの具志堅隆松さんは「日本軍の頑張りがかえって南部での軍民混在の悲劇の原因の一つになったかと思えば・・・」と語っている。
島田叡県知事のことは佐古忠彦監督『生きろ 島田叡 戦中最後の沖縄県知事』で映画化されているが、生憎見逃している。