2025年06月06日

『秋が来るとき』

 月に一度の映画館行き、6月はフランソワ・オゾン監督『秋が来るとき』を観てきた。
 久しぶりのフランス映画、緑豊かな街ブルゴーニュを舞台に、タイトルにあるように人生を季節に例えれば秋から冬を迎える80代の一人暮らしの女性、しかも誰にもしゃべりたくない過去を抱え、関係が冷え込んでいる一人娘と愛情を注いでいる孫、親友との絆などを描いた物語。

 80歳のミシェルが暮らすブルゴーニュは緑豊かで羨ましくなるほどの街。ある日、パリに住む一人娘と孫が遊びにやってくる。母親だからミシェルは森で採ったキノコを使った料理でもてなすのだが、一人だけ食べた娘が食中毒になってしまう。
 離婚調停中で精神が安定していない娘は「私を殺そうとした」と母親を詰るのだ。
 一人暮らしのミシェルには親友がいて、互いに支えあって生きているのだが、煙草をすぱすぱ吸う親友は堅気の人にはみえない。彼女の息子は刑務所に収容中。間もなく出所できそうだということで、二人は子育てに失敗したと語り合う。
 息子が出所してから事件が起こり、物語は展開していくのだが、興趣をそいでしまうからストーリーはこのくらいにしておく。


 れいわ新選組の山本太郎代表が厚労省などの調査を基に一人暮らしの女性の貧困問題を取り上げている。
 若い女性から高齢者まで、非正規雇用かつ派遣労働の女性たちは高齢になって年金が国年ということで給付される金額が少ないから、高齢になっても働き続けなければ生きていかれない。
 語り継ぐ戦争だから、敗戦後の日本やドイツなどの女性は生きるために仕方なく春を鬻いだ。
 そう、菊池章子の「星の流れに」身を占ったヒロインみたいにだ。

 年金がきちんと給付されていれば、何とか生活はできるだろうが、働いて老後の資金を蓄えることなど至難の業である。
 ミシエルは生活に困っている様子がなかったが、親友は生活が大変そうだった。
 80歳で一人暮らしで、親友との交友以外につきあっている人がいないとなれば、過去に理由ありかなと思うのが普通であろう。

 結局、しゃべりたくない過去とはやはりそうだった。

 1940年の作品、マーヴィン・ルロイ監督、ヴィヴィアン・リーとロバート・テイラー主演『哀愁』でも取り上げられていたが、生きるため、生活のためにやむを得ずということだったとミシェルは孫に問われて答える。
 戦後、基地の街では鬼畜米英と呼んでいた敵国の米兵を相手にした女性たちを蔑む、差別する堅気の人たちがいたが、自分がその立場になれば、きれいごとでは食べていかれない。

 普通の仕事では非正規雇用で、派遣労働という女性が少なくないわけだから、この職業は今でも現実には託児所付きというような労働環境で存在している。

 しかし、主題となっている母と娘の関係の難しさは、長く購読している読売の人生案内の昨6月5日でも同様の相談があったくらいである。

 生きていくには、性別を超えて、自立していないと自由には生きていかれないものだと映画を観て考えさせられた。

 後期高齢者になってしまった自分には連れ合いがいてくれてありがたいと手を合わせてしまった。