2025年06月02日

地図から消された瀬戸内海の大久野島

 太平洋戦争中に地図から消された島がある。日本軍が極秘に毒ガスを製造していた瀬戸内海の 大久野島(広島県竹原市)だ。周囲4キロの小島には今も戦争遺跡が残り、「負の歴史」を伝えている。と6月1日の読売(波多江一郎記者)が伝えている。

 約100トンのタンク6基が置かれた毒ガス貯蔵庫の壁は所々黒ずんでいる。戦後、毒性を取り除くために火炎放射器で焼かれたためだ。製造施設に電気を供給するディーゼル発電機が置かれた建物は3階建ての吹き抜け構造で、見る者を圧倒する。

 大久野島は、広島市の中心部から東に約50キロ。港からフェリーに揺られて15分でたどり着く。4月下旬、毒ガス工場の歴史を伝える山内正之さん(80)が、現地学習に訪れた広島県廿日市市の山陽女学園中等部生たちにこう訴えた。

 「日本人は戦争の被害に遭っただけではなく、加害者でもあった。そのことを知ってほしい」

 毒ガス工場は、1929年に陸軍の兵器製造所として開所した。海に囲まれた島は機密を守ることが容易である一方で、労働者らが簡単に船で行き来できるため適地となった。

 皮膚をただれさせる猛毒の「イペリット」や「ルイサイト」を製造し、37年の日中戦争以降、生産は拡大。一部が戦場で使用されたとされる。終戦までに6616トンが生産され、6000人以上が業務に従事したとの記録が残る。

 工場には対岸の本州の住民や中学校、女学校の生徒らが動員された。作業は危険と隣り合わせ。誤ってガスを吸い込むなどして負傷者や死者が相次いで出た。工場内の様子は口止めされ、当時の地図では、島周辺が白く消された。

 生産された毒ガスは戦後、海洋投棄や焼却処分にされた。だが作業員らは慢性気管支炎などに苦しみ、広島県によると、国が被害を認定した健康管理手帳の所持者は5月末現在、全国に463人(平均年齢95歳)いる。

 
 1995年3月20日、オウム真理教教祖の命令で信者が製造した猛毒のサリンを地下鉄の車内で撒いた事件から30年になる。
 死者13人、負傷者6000人以上と伝えられたが、実際は寝たきりにされた人がいるくらいで、数字より被害は大きい。

 オウムのこの事件はテロだから、一緒にはならないが化学物質の怖さといえば、有機水銀やカドミウムなどの中毒事件が想起される。
 公式確認されて、69年になる水俣病、60年になる第二水俣病とも呼ばれる新潟水俣病、イタイイタイ病などの公害病がある。
 昨日、新潟水俣病が公式確認から60年ということで、胎児性水俣病患者の「人生返して」という悲痛な叫びをとりあげた。
 被害者の救済策としては、公害健康被害補償法などに基づき、これまで認定患者717人に一時金や医療費が支払われている。2009年施行の水俣病被害者救済法などで、未認定患者を含む計2793人に拡大されたと5月31日の読売が伝えていた。
 毒ガスは戦時中のことで管理手帳を持っている人が463人(平均年齢95歳)ということだから、被害者の数は決して少ない数ではない。

 5月1日の読売が米国本土を攻撃する風船爆弾の開発で知られ、毒物の製造やスパイ活動など「秘密戦」の研究をしていた陸軍登戸研究所が戦争末期に長野に疎開していたことを伝えていた。

 語り継ぐ戦争だから、毒ガス島大久野島のことは知っていて、犠牲となった人たちのお参りを検討したことがあるのだが、意気地なしだから、安全が担保されているかどうかわからず、行くことを断念した。

 アジア太平洋戦争といえば、日本が被害者であったかのような面が強調されて伝えられてきたことは事実である。
 しかし、満蒙開拓団の入植一つとっても、イスラエルがヨルダン川西岸でパレスチナの人々を武力で追いやり、ユダヤ人が入植していることと同じことをしたことはわかりやすい例である。

 米国は台湾に侵攻、侵略しようとしている中国に対し、日本の自衛隊を中国と戦わせようと企む。
 軍需産業が支配している米国は、過去、戦争ばかりやってきたが、ロシアがウクライナに侵攻、侵略しても武器は送っても、米軍は派遣していないことが参考になる例だ。

 日本の自民党などの親米保守派は米国が煽る台湾危機に乗せられ、自衛隊を派遣させるために緊急事態条項を盛り込んだ憲法に変えようとしている。
 愚か者たちが国会で多数を占めると、日本は米国の戦争に巻き込まれてしまう。