2025年はベトナムと米国にとって意義深い年にあたる。4月30日はベトナム戦争終結50周年、7月11日は国交回復30周年、9月2日は米国情報機関OSSが支援したベトミン(ベトナム独立同盟)がベトナム民主共和国の独立を宣言してから80周年にあたる。ベトナム共産党幹部らの教育機関、ホーチミン国家政治学院(HCMA、ハノイ)の関係者らは、ベトナムが米国と親しい関係を築いた背景には、様々な要因があったと指摘する。と5月3日の朝日新聞WEB(ハノイ=牧野愛博記者)が伝えている。
ベトナムの人々にとって、ベトナム戦争とは何だったのか。HCMAのウオン・ビエット・サーン博士によれば、ベトナム戦争は外国の言葉で、ベトナムの人々は「祖国を救うための抵抗戦争」と呼ぶ。ベトナムの政府・党は「世界で最も残虐な戦争」とも認識しているという。
2024年11月にハノイ郊外にオープンした戦争博物館には、抗仏独立闘争とともにベトナム戦争当時の写真や兵器などが詳しく展示されている。展示の特徴のひとつが「ベトナム全国民の団結」だ。
4月30日の読売も南ベトナム民族解放戦線が「秘密基地」として利用していた麵料理店の店主の証言、「語り継ぐ戦争」と平和への思いを伝えていた。
少子高齢化で人手不足だからということで、企業経営者は外国人労働者を労働力として使っている。
東南アジアからやってくる人々は、日本社会でも賃金の割に、労働が厳しく人手不足の世界、介護とか解体などの建設労働に従事する人たちが多い。
当然のことのように外国人による犯罪も滅茶苦茶増えている。
逮捕された中で、特に、ベトナム人、中国人は目立つ。
だから、ベトナム人には佳い印象は全くない。
ベトナム戦争中の1970年頃、米軍基地でアルバイトをしたことがあったし、学生時代、マリオ清藤が歌った「ユエの流れに」という歌が気に入って覚えたことがある。その後、産経の特派員だったか近藤紘一『サイゴンから来た妻と娘』がNHKでドラマ化され、主題歌として「美しい昔」が流れた。
米軍がサイゴンから逃げ出し、サイゴンが陥落した時は、自分も喜んだことを思い出す。
さて、そのベトナム人があの米国と戦って勝ったということで、かつては尊敬していた。
アジア太平洋戦争で、米国との戦争を始めた日本は勝てるはずがない戦争に敗れたことで、市民は自由を手に入れることができた。
その後、米国の植民地同然の立場となって、右寄りとか保守とされている立場の人間でさえ、親米だなどと寝言を言っている。
ベトナム戦争でダイオキシン入りのナパーム弾、所謂焼夷弾で森を焼き払われ、奇形児がたくさん生まれたベトナムの人は、米国との戦争が終わるや、この50年で、米国とも普通に付き合っていることに驚く。
したたかというか、そのしなやかな思考に感心しきりである。
外務大臣や総理大臣は東南アジアを訪れるたび、援助のカネを持っていくから歓待される。
その一方で、国内では子ども食堂に頼らなければならないほど子どもたちやシングルマザーたちが貧困に喘いでいる。
自民党公明党の政治が、30年にわたるデフレ経済を放置したため、経済がよくならなかった日本。
対するベトナムの指導者は、戦争で酷い目に遭わせられた米国に対し恨み言を言うでなし、上手につきあっている。
米国の植民地同然になり下がった日本とはえらい違いだ。