名古屋を爆撃した米爆撃機「B29」の搭乗員の遺品から名古屋空襲を考える企画展「80年前、父は名古屋を焼き尽くした―B29搭乗員の記録から」が、名古屋市名東区のピースあいちで行われている。と4月21日の読売が伝えている。
軍用機の工場などが集積していた名古屋市は1942年4月から45年7月にかけて空襲の標的となり、7858人が死亡、13万戸以上の家屋が焼失、損壊した。
搭乗員は米ニューヨーク州のビジュアルアーティスト、ボブ・フレミングさん(75)の父親ロバート・バーク・フレミングさん(1999年死去)。
2007年に母親を亡くした後の遺品整理で、父親が搭乗員として1944年11月27日から45年5月16日まで計32回、日本への爆撃に参加していたことがわかった。市街地中心部への攻撃が本格化した3月12日や名古屋城天守閣が焼失した5月14日など名古屋には6回出撃していた。
「どのように戦争のような残虐行為に関わっていくことになるか、考えてみたかった。押しつけではなく問いかけたかった」と、映画「しがみつき、燃え続ける(名古屋を消す)」(邦題、2023年)も製作した。自身が父子2役を演じ、父に戦争責任を追及するなどした。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2014年8月、豊橋から三ヶ根山にお参りに行ったとき、名古屋にも行っている。
占守島の戦車11聯隊と1945年8月9日未明のソ連軍の侵攻で逃げ惑う満蒙開拓団などの避難民を支援し、中国共産党軍に捕まり、銃殺刑になった「お町さん」の慰霊碑にお参りするためだった。
名古屋では空襲などで焼け死んだ女郎たちの供養のため、彼女たちの遺灰などで作ったとされている中村観音にお参りしたが、この時、主たる目的が三ヶ根山にある慰霊碑へのお参りであったため、名古屋空襲の調べが甘かったことと、日帰りであったため、時間の余裕がなかったことは悔いが残る。
名古屋といえば、思い出したくない自分の不始末もあった。
若い頃、脇が甘かったのだろう。学生時代の友人と行った渋谷のその方面の店で営業トークに騙されてしまったのである。
調子に乗って、鳳来寺山だったかに遊びに行こうと日を改めて待ち合わせしたが、待ちぼうけを食らい、一人寂しく出かけ、夕刻、名古屋駅の裏側というか、危なそうな街方面に降りてしまい、案の定、立ちんぼの人に声をかけられた。でも、騙されたばかりだったので、断ったので事なきを得た。
偶々、入った店では客を同伴した女性が2階に上がっていくのを目撃したくらいだから、すこぶる怖いという印象の街だった。
あれから幾星霜、明るい時間ではあったが、名古屋駅を降りた時、記憶は薄れていても、同じ街側であったような気がしてきた。
そういえば、中村観音というくらいだから、中村遊郭があったはずの街を歩いていたのである。
さて、名古屋空襲である。
戦争では加害者と被害者が時と所を変え、戦後も消すことができない痛みを与えたり、受けたりする。
加害者側は、一般的には沈黙することが少なくないが、被害者側からすれば、戦後になっても痛みを忘れられず苦しめられる。
B29で名古屋を空襲、空爆した父親のやったことを映像にする加害者側の息子がいることが俄かには信じられないが、なかなかできないことで、評価できる。
日本人はともすれば、満州での悲劇を語り、原爆の惨禍を訴える。
しかし、戦争だから、日本兵だって、731部隊のような酷いこともしている。
戦後、過去の戦争を検証することは、二度と戦争をしないために必須のことである。
米国は嫌いだが、米国人には素晴らしい人がいることを教えられた。