戦艦大和がアメリカ軍の攻撃を受け沈没してから7日で80年を迎え、呉市にある慰霊碑の前では追悼式が行われた。とメディアが伝えている。
TSSテレビ新広島によれば、戦艦大和の追悼式には戦死した乗組員の遺族などおよそ300人が参列した。
戦艦大和は沖縄に上陸したアメリカ軍に対抗するため、生きて帰ることが許されない「特攻」として出撃。
アメリカ軍機の攻撃により鹿児島県沖で沈没し、3056人の乗組員が戦死した。
呉市にある慰霊碑といえば、「碑を巡る」というタイトルで2月18日の読売が戦艦大和戦死者之碑として「海軍の象徴 戦争語り継ぐ」という見出しで取り上げていた。
「大和ミュージアム(休館中)の館長戸高一成さん(76)は「世界最大の戦艦を用いず、敗戦を迎えたら海軍の面目が立たないということで特攻に踏み切った側面もある。海軍のメンツのために負けてもいいという形で多くの人の命を差し出した。日本海軍の汚点だと」断じている。
4月6日、大和は駆逐艦などを従えて計10隻で沖縄へ向けて出撃し、翌7日、九州南西沖で米軍機の攻撃を受けて沈没。乗組員の約9割3056人が戦死し、生還者は276人だったとされる。
同じ読売が4月6日、梅田明日佳の読書ノートで吉田満『戦艦大和ノ最期』を取り上げ、「犠牲強いる空気 今も」という見出しで、名著と評価の高いこの書籍に書かれていることを紹介している。
大和の最期は、侵略に憑かれた旧日本軍転落の象徴だとし、「軍がこの戦いに投入した吉田のような学生は終戦後の日本を立て直すためのリーダーとなりうる人たちだった。この海戦で戦死した臼淵馨大尉は自分たちは日本が『敗れて目覚める』ために死ぬのだと若い士官らを慰めたが、人柱となることへの葛藤は想像を絶するものだ」と逝く人たちの気持ちを慮っている。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚であるが、戦争で犠牲となった人々のお陰で、戦後80年、つまり団塊の世代の一員としては、その人生のすべてで平和に暮らせたことを感謝し、全国の慰霊碑を周ってきた。
アジア太平洋戦争に関心のない向きと異なり、自分は戦争について詳しく知っている方だろうと見ていたが、反省すべき点も少なくないことが分かった。
人間魚雷「回天」のことを描いた『出口のない海』を見逃してしまったこと。
人間爆弾「桜花」の慰霊碑がある鹿島にまだ行っていないこと。
そして、戦艦大和の慰霊碑にお参りしていないことと、『戦艦大和ノ最期』を読んでいないこと。
シベリア抑留から引き揚げてきた人と仕事で接点があったにもかかわらず、若かったから、話を聞くことができなかったこと。
など、反省というか悔いていて、死ぬまでに実現させたいと念じている。
戦艦大和といえば、戦艦大和のスクリューだったかの製造に関わった技術者が親族にいて、東京青梅にある老人ホーム慶友病院に入所していたので訪ねたことがある。
語り継ぐ戦争だから、戦艦大和のことやら戦争のことを聞かせてくれるということだったが、訪ねたら、墓場まで持っていく云々で聞かせてはくれなかった。
その後、100歳くらいだったかで旅立ってしまった。
戦艦大和ミュージアムの館長が水上特攻は、海軍のメンツのために多くの人の命を差し出した。
臼淵馨大尉が自分たちは日本が敗れて目覚めるために死ぬのだ。と差し出された命の重さを思うとき、命令する側は戦後もおめおめと生き残っていることに憤りを抱く。
一つの戦艦で3056人が犠牲となったことに対し、死者に改めて供養の祈りを捧げたい。