2025年04月01日

米軍沖縄本島に上陸から80年 

 1945年4月1日、米軍は早朝から激しい艦砲射撃を加えた後、沖縄本島中部の西海岸へ上陸した。予想に反して日本軍の反撃はほとんどなく、米軍の従軍記者だったアーニー・パイルは上陸後の行動をこう書き残す。「まるでピクニックのようだった。皆で腰を下ろして七面鳥とオレンジに舌鼓を打った」と4月1日の毎日新聞のWEB【喜屋武真之介記者】が伝えている。

 読谷山村(現・読谷村)の自然壕、シムクガマではこの日、避難していた住民約1000人が米軍に保護された。ハワイ帰りの大人2人が米兵と交渉し、投降するよう住民を説得した。

 一方、近くのチビチリガマでは翌2日、住民が集団自決し、83人が亡くなった。半数以上が子どもだった。米軍は投降を呼び掛けたが、多くの人が「残虐に殺される」と恐れ、応じなかった。

 本土決戦までの時間を稼ぐため、日本軍はあえて地上戦に持ち込んだ。米軍の侵攻を遅らせようと、各地の橋も事前に破壊した。だが、その工作は功を奏さず、むしろ住民の避難を妨げた。米軍は沖縄本島を分断して南へ、北へと進んだ。嘉手納町に、爆破された栄橋の橋脚の一部が残る。


 花冷えというには寒すぎて昨日から冬物を身に着けているが、菜種梅雨を思わせるような雨マークの多い週間予報にあちこちから桜の開花の便りが届き、三つ葉つつじのピンクや菜の花の黄色が鮮やかに春の到来を告げている。
 花粉症で悩まされる3月が卒業生たちと共に旅立ち、新しい年度のスタートラインに立つ人達が希望と不安な気持ちを抱え、北風と冷たい雨の中を傘を差しながら出かけたことであろう。

 80年前、沖縄本島で戦争が始まったといえば、高倉健と吉永小百合の共演で話題となった森谷司郎監督『動乱』をTVが放送してくれた。
 1932(昭和7)年の所謂・5・15事件から1936(昭和11)年の同2・26事件までの時代を背景に青年将校とその伴侶にスポットを当てた物語で、軍事クーデターで決起した青年将校が鎮圧され、軍法会議で銃殺となるまでのことが描かれている。
 1980年に公開されたときに観ているけれど、内容はよく覚えていなかったが、観た理由だけは忘れていなかった。
 2・26事件が起きた時代は恐慌で貧しい農民の娘たちが身売りを余儀なくされ、息子たちは食べるために軍隊に志願した時代である。
 青年将校と共に決起した兵士たちが貧しい実家の妹が身売りさせられるような政治を変えたいという願いで行動を共にしたと耳にしていたからで、人身売買に反対する立場だったからだ。
 姉が芸者に身売りさせられることを知った初年兵が脱走し、死ぬことを強要する上官を手にかけ、銃殺刑に処せられる。その姉が初年兵の所属する部隊の責任者である青年将校が工面したカネを受け取りながらも芸者になってしまう。二人は満州で再会し一緒になる。
 やがて、青年将校は2・26事件を起こすのだが、決起は失敗に終わり、首謀者の一人として銃殺される。
 日本は事件の5年後、米国との戦争に突入するのだ。

 沖縄戦に目を転じてみよう。

 もともと琉球王国だった沖縄。日本軍が本土の防波堤にしたことから悲劇が始まった。
 米軍は本土の攻撃の前に、南太平洋から北上し、ソロモン諸島ガダルカナル、テニアン、サイパン、グアム、硫黄島と次々と日本軍守備隊を攻略し、沖縄の慶良間諸島座間味島に上陸したのが1945年3月26日、27日には隣の渡嘉敷島に上陸し、4月1日に中部の読谷村に上陸する。
 鉄の暴風と形容されるほどのすさまじい艦砲射撃を加えた後、上陸し、日本軍を南北に分断させ、結果的に南下していく日本軍を摩文仁に追い詰めた。
 6月23日、守備隊司令官の自決で集団的な戦闘は終結した。

 沖縄での日本軍は硫黄島での戦いの如く、持久戦に持ち込み、本土への上陸に対する時間稼ぎ、つまり、防波堤にするというのが日本軍上層部の考え方だった。
 しかし、ガマと呼ばれている自然壕に隠れている住民を追い出したり、子どもが泣くと、日本軍兵士は子どもを殺せと命じたり、住民を守るための軍隊ではなかった。
 それでも、沖縄県民は師範学校や高等女学校の教員や生徒たちがひめゆり部隊や鉄血勤皇隊を組織して、日本軍に同行し、兵士の看護などに力を尽くした。

 琉球民族の素晴らしいところは、敗戦後、勝者、敗者、民族の区別なく弔うため、平和の礎に刻銘し、供養の祈りを捧げることができるようにしていることだ。

 あれから、80年。
 戦争にならないようにしていかなければならない。