2025年03月13日

無差別爆撃を指示した米軍司令官に日本政府が叙勲

 太平洋戦争末期の1944年12月から終戦前日の45年8月14日まで、大阪府内では米軍による空襲が50回以上あり、このうちB29爆撃機が100機以上襲来した大空襲は8回あった。

 最も被害が大きかったのは、45年3月13日深夜から14日未明にかけての第1次大阪大空襲だ。米軍資料などによると、274機の爆撃機が焼夷弾1733トンを大阪市浪速区や西区などの市街地に投下し、約4000人が死亡、約50万人が被災した。とWEBの毎日新聞【高木香奈記者】が伝えている。

 第1次大阪大空襲は日本の大都市を襲った夜間低空での焼夷弾攻撃の一つに位置づけられる。東京(3月10日未明)、名古屋(同12日未明)の大空襲に続き、後に神戸(同17日未明)、名古屋(19日未明)の大空襲があった。これら一連の攻撃は、従来のB29による日本への爆撃方法を大きく変更したものだった。

 「改訂大阪大空襲」(小山仁示著、東方出版)が引用する米軍の報告書によると、45年1月に司令官に着任したカーチス・ルメイ少将が率いる第21爆撃機集団は低空からの焼夷弾投下を研究。軍人と民間人を区別しない無差別爆撃が始まった。

 大阪空襲の推定犠牲者約1万5000人のうち、名前の一部など何らかの情報が判明している人は2024年3月末時点で9157人。民間団体「大阪戦災傷害者・遺族の会」が調査した約6000人分の名簿などを基に、大阪国際平和センター(ピースおおさか)が02〜04年に大規模調査を実施。その後も更新を続けている。

 東京大空襲から80年となる10日、米軍による日本本土空襲を指揮したカーチス・ルメイ氏に対する日本政府の叙勲を取り消すことを求める市民らが、政府に要請書を手渡した。とWEBの朝日(北野隆一編集委員)が伝えている。
 ルメイ氏は戦時中、日本に対する爆撃機部隊の司令官として、日本国内各地への空襲を指揮。東京大空襲については回想録で「近代航空戦史上で画期的なできごと」と自賛した。日本政府は戦後、航空自衛隊発展の功績で1964年に勲一等旭日大綬章を授章した。

 これについて、沖縄戦戦没者の遺骨収集を続ける市民団体「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんらは10日に国会内で、勲章の法令を担当する内閣府賞勲局職員と面会。ルメイ氏について「東京大空襲で一晩に10万人以上の市民が焼き殺された事実への悔恨の念などなく、次々と全国の都市の市民を殺戮する無差別爆撃を進めた」と非難。叙勲は「ルメイ氏による日本人の大量殺戮を日本政府が看過したということ」だとして、取り消しを求めた。


 戦後80年、語り継ぐ戦争であるが、戦争のことで知っていることはほんのわずかであることを思い知らされる出来事があった。
 東京大空襲に次いで大阪でも大空襲があったが、米軍はそれまで、軍事施設をターゲットにし、無差別爆撃はしていなかったというのだ。
 非武装の市民を無差別に殺戮することを命令し反省もしていなかった米軍の司令官に日本政府が叙勲をしていたというのだからお人好しにもほどがある。
 航空自衛隊の発展に貢献したというのがその理由らしい。
 このことに抗議したのは、沖縄で遺骨収集を続けてきたガマフヤーの具志堅隆松さんたちだというではないか。国の役人たちはそれでも日本人なのか。

 東京江戸川区の檜森富恵さん(93)は、東京大空襲の日、13歳。深川区の集合住宅の2階に暮らしていた。父は病死、教員の母親は当直で、兄と姉の3人でいた時、空襲で1階玄関が火に包まれた。
 兄が布団を2階から投げ、「そこに飛び降りろ!」と叫ぶ。
 何とか脱出したが、炎が迫り、兄は腰に柔道の帯を巻き、姉と妹に握らせ、はぐれないようにして「川に逃げよう」と近くの小名木川に向かい、筏に飛び乗った。熱風が吹き荒れ、燃えたトタンが飛んでくる。
 「筏の下にもぐれ!」という兄の声で潜り、再び筏に乗ると、濡れた服が熱風ですぐに乾いたという。
 翌朝、焼け焦げた遺体をよけて、学校にたどり着き、母に駆け寄った。兄は妹を守った安ど感からか泣いていた。3月11日の読売が伝えている。

 非武装の市民を無差別に爆撃した結果、兄の機転で奇跡的に助かった兄と妹たちがいた一方、川に逃げた人の多くが助からなかったとも伝えられているのだ。

 ガマフヤーの具志堅隆松さんは『骨を掘る男』として映像化され、ポレポレ東中野で上映されたことで、活動が紹介されていたが、こんな活動もされていたとは知らなかった。
 穏やかな人柄で、遺骨収集に取り組む姿には敬意を表し、エールもおくってきた。