全国犯罪被害者の会(あすの会)」を設立し、犯罪被害者の権利確立に取り組んできた弁護士の岡村勲さんが死去した。95歳だったとメディアが伝えている。
3月4日の読売によれば、97年、代理人を務めていた旧山一証券を一方的に恨んでいた男に妻の真苗さん(当時63歳)を殺害された。
遺族が刑事裁判に参加できなかったり、被害補償が不十分だったりする理不尽さを訴え、2000年、家族を奪われた遺族らで「あすの会」を設立し代表幹事に就任。被害者らの刑事裁判参加などの法制化を求め、約56万人分の署名を集めて首相に提出した。
04年に被害者の権利を明記した「犯罪被害者基本法」が成立。被害者が刑事裁判で被告に質問などができる「被害者参加制度」創設に向けた国の議論に加わって、08年の制度導入に力を尽くした。10年には凶悪犯罪の公訴時効の撤廃も実現した。
あすの会は会員の高齢化などで18年に解散したが、被害者への経済的支援が不十分なままだとして、22年に「新全国犯罪被害者の会(新あすの会)」を創立。被害者支援に充てる国の予算拡充などを求め、活動を続けてきた。
佐藤秀郎『衝動殺人』(中公文庫)を買い求めて読んだこと。この本を原作とした木下恵介監督『衝動殺人 息子よ』を観たことで、50代半ばを前に退職し、通教であるが大学で学び、犯罪被害者支援を訴えるため発信している。
衝動殺人は実話で1960年代半ばの頃だったか、京浜工業地帯で鉄工所を経営していた市瀬朝一さんが一人息子を通り魔に殺害されたことから、全国の事件の被害者の遺族を周って、「被害者遺族が声を上げない限り、遺族は泣き寝入りになってしまう。一緒に立ち上がろう」と呼びかけたのだ。
この呼びかけに反応したのが木下恵介映画監督で、映画化されたことで犯罪被害者の遺族がおかれた情況が広く知られることになった。
主が殺害されても、賠償金もなく、生活が困窮することになった被害者遺族を救済する制度が当時はなかったのである。
岡村勲弁護士は、ご自身でも書いていたが、最愛の連れ合いを殺害されるまでは、真に犯罪被害者の立場を理解していなかったというのだ。
自身が遺族になって弁護士で法律に通じていた岡村さんだから、刑事司法の蚊帳の外におかれた犯罪被害者遺族が国を動かすためには、団結しなければならないと全国犯罪被害の会(あすの会)を結成し、犯罪被害者と遺族の立場に立った活動を始めることになったのである。
読売の社会部の石浜友理記者2024年4月、岡村弁護士宅で取材したとき、悲願の「犯罪被害者庁」実現に、「私には持ち時間がない」と熱く語っていたそうな。
「あすの会」代表幹事が弁護士の岡村勲さんでなければ、法律を変えるなんてことはなかなかできることではないし、国を動かすことだって難しかったであろう。
三菱重工爆破事件が起きて、世間の目が犯罪被害者に向き、遺族に対する支援も他人事でなくなったということも味方にはなっているにしてもだ。
市瀬朝一さんが立ち上がり、岡村勲弁護士が代表幹事だった「あすの会」や「宙の会」などの犯罪被害者遺族の皆さんの尽力で日本の司法を変えることができた。
司法制度の蚊帳の外におかれていた犯罪被害者遺族が刑事司法、裁判に参加することができたのは画期的なことである。
体感治安が悪化している今、いつ犯罪の被害者、あるいは遺族にならないとも限らない。他人事ではないのである。