「戦後80年 昭和百年」戦火 下、3月1日の読売が伝えているのは非武装の市民が標的となった米軍による無差別空襲、空爆である。
1面では1945年3月10日、米軍の爆撃機「B29」約300機の大編隊が投下した30万本超の焼夷弾で火の海と化した所謂東京大空襲で一夜で10万人の命が奪われたが、運よく生き残った人たちの証言を伝えている。
この夜の東京大空襲では、木造家屋が密集する下町が狙われた。
本所区(現墨田区)、深川区(現江東区)で被災した90代が空襲、空爆の悲惨さを証言している。
特別面では、「無差別爆撃 各地で」、「B29の恐怖 頭離れず」、「防空壕の中『おったら蒸し焼きに』」、「長屋を再現 燃え方研究」、「延べ3万3000機が襲来」という見出しで伝える中に、米軍の焼夷弾の構造まできちんと伝えている。
東京大空襲で下町を焼け野原にした米軍は、全国の都市への爆撃を本格化させる。国が「日本戦災遺族会」(解散)に委託してまとめた1977年度の調査報告書によると、日本本土への空襲による死者は18万6000人に上った。
米軍機による日本本土への初空襲は、日米開戦から4か月後の42年4月。空母から発艦した「B25」が東京や名古屋に爆弾を落とした。
B29が日本本土を初めて爆撃したのは44年6月だ。中国の成都から福岡の八幡製鉄所を狙った。
大阪の空襲による死者・行方不明者は計約1万5000人。45年3月以降、100機以上のB29による大規模な空襲は8回行われた。
紙面では、3月13日の大阪大空襲、6月19日夜、1000人以上の死者・行方不明者が出た福岡大空襲で生き残った証言を伝えている。
米戦略爆撃調査団によると、戦時中、B29は延べ約3万3000機が日本本土に出撃。損失は485機だった。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚というのが立ち位置であるから、自分なりにアジア太平洋戦争について学んできたが、今回の空襲、空爆に関しても経験者がどんどん舞台から退場していくのを見て焦りすら覚える。
米軍のB29が空から焼夷弾という爆弾を落としたことを空襲と呼んでいるが、自分が空襲の後に空爆と付け加えているのは、空襲というよりも空爆の方が実態に近いからだ。
1960年代後半から70年代のベトナム戦争の時は空爆という表現が使われていたが、あの時米軍がベトナム民族解放戦線(ベトコンと米軍が呼んでいた)が隠れているジャングルを焼き払うために猛毒なダイオキシン入りの枯葉剤を撒いたためにベトちゃん、ドクちゃんで知られる多数の奇形児が生まれた。
非武装の市民を無差別に爆撃する空襲、空爆はいかに戦時下とはいいながら、戦争犯罪としか思えない。
2022年2月24日のロシアによるウクライナへの侵略から4年目ということで、ウクライナに目を向けると、ロシアの爆撃で壊された建築物が鉄筋コンクリートだったこと、シェルターが整備されていたことに注目した。
木造住宅が主流となっている日本だったらと考えただけで怖ろしくなった。
80年前、大都市とは名ばかりの東京について、住宅が木造建築だと調べ上げた米軍は住宅が密集している下町を標的に焼夷弾を落とし、被害が広がることを想定していたはずだ。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で、北は北海道稚内から南は沖縄の摩文仁まで周ってきたが、空襲、空爆にスポットを当てるなら、やはり、大都市東京、大阪の被害が圧倒的に多かった。
その大阪の街を案内し、空襲、空爆の資料を作っていただいた大阪城のボランティアガイド植野雅量師が自らの空襲経験を語っていただいたことが忘れられない。
空からの米軍機の機銃掃射で一緒にいた友人が殺されたというのだ。
どんなにか怖ろしかったことであろうか。
その植野師も先年、亡くなってしまった。
空襲、空爆には機銃掃射もあるということを教えていただいた。