2025年02月06日

「湯の花トンネル」列車米軍銃撃事件新たな犠牲者

 太平洋戦争の終戦直前、八王子市裏高尾町の「 湯の花トンネル」付近で、走行中の列車が米軍機の機銃掃射を受けて50人以上が亡くなった銃撃で、新たな犠牲者奥田新子さん(当時20歳)が三十数年ぶりに明らかになり、現地の慰霊碑に名前が刻まれた。研究者からの情報提供で判明したといい、空襲の調査を長年続けてきた「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」は「犠牲の実態を明らかにすることが我々の使命なので、とても感慨深い」と2月4日の読売(長谷部耕二記者)が伝えている。

 銃撃が起きたのは、1945年8月5日昼。新宿から長野に向かっていた中央線の列車が湯の花トンネルの入り口に差し掛かった時、米軍のP51戦闘機数機の機銃掃射を受けた。当時警察が確認しただけで52人の乗客が死亡し、133人が負傷したとされており、列車銃撃の被害としては国内最大の規模と言われるが、発生当時は戦時下の情報統制で、詳しい被害は公表されなかった。

 魯迅研究者で慶応大名誉教授の長堀祐造さん(69)が2023年夏、魯迅と近いのに資料が乏しい歯科医奥田愛三氏について調べ、長女が列車銃撃事件で犠牲となっていることが分かった。


 中央線湯の花トンネル銃撃事件は、米軍による非武装の市民ジェノサイド事件として、語り継ぐ戦争の立場から書いてきたが、戦後80年ということで、新たに犠牲者が判明し、92年に現場に建立された慰霊碑に名前が刻まれたことは犠牲者を供養する上でほっとする出来事である。
 米軍の空爆、空襲という戦災で犠牲となった人の数と名前を特定している長岡市のことを取り上げてきたり、ミッドウエー海戦の日米双方の犠牲者の数を調べた作家澤地久枝さんの成し遂げられた仕事快挙だと称えたことがあった。

 戦災の犠牲者は一般的に約と言うことで表現されてきたが、約が数字の前についてしまっては自分がその中に数えられていないのではないかという犠牲者も当然でてくるのではないか。

 供養といえば、ヒロシマ・ナガサキの原爆犠牲者を筆頭に、戦災で亡くなった人の慰霊碑などで手を合わせるとき、決まって無縁仏を優先してきた。
 名前がわかっていて、家族や親族がいれば、そちらでお参りしてくれるかもしれないが、無縁仏となれば、誰もお参りしてくれないかもと思い、戦没者慰霊のための行脚で重点的にお参りしてきた経緯がある。
 
 戦没者ではないが、同じように自由を奪われていた女郎、娼婦などと蔑むように呼ばれていた哀れな女性たちの供養も並行して行ってきたが、同じような気持ちからのことである。

 沖縄の平和の礎はこの点素晴らしい。
 沖縄戦で敵味方なく戦没した人々の名前を刻むことを考えた人物に敬意を表してきたのは、戦争ともなれば、企図してきた人達は、自らは安全地帯にいて、平気で兵士を特攻兵器にするほど命を粗末にしてきたからだ。

 「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が1984年に設立した慰霊碑に名前を刻まれてない犠牲者がまだいるみたいだから引き続き特定できるように願っている。