2025年01月15日

人間爆弾「桜花」を忘れない

 太平洋戦争末期、旧日本海軍の特攻兵器「桜花」の訓練が、現在の茨城県鹿嶋市で行われていた。桜花は全長約6メートルの1人乗りで、上空で飛行機の下から切り離され、1・2トンの爆弾を抱えて敵艦への体当たりを狙う。着陸機能はなく、生還できないため、「人間爆弾」と呼ばれた。と1月14日の毎日新聞のWEBが伝えている。

 現在の日本製鉄東日本製鉄所鹿島地区の構内にはかつて神之池海軍航空基地があり、秘密裏に桜花の訓練が行われていた。生家が基地の近くにあった郡司文夫さん(84)は、農作業を手伝ってくれた桜花の訓練生と幼い頃に遊んだ記憶がある。

 1991年、住友金属工業(当時)が鹿島製鉄所の構内にある、軍用機を敵の空襲から守る掩体壕を取り壊すという話が浮上した。郡司さんは県遺族連合会の会員だったこともあり、住金側に保存を働きかけ、住金は桜花の訓練地だったこの周辺を桜花公園として整備した。93年から郡司さんが中心となって毎年8月に慰霊祭を開催してきた。

 公園完成と同時期、桜花の歴史を継承し、慰霊祭に集まった遺族や元隊員らが交流できる場を作るため、郡司さんは私財を投じて鹿嶋市平井に平屋建ての資料館「特攻桜花記念館」を建設。資料の展示やシンポジウムなどを開き、活動の拠点となってきた。全国から元隊員の証言や資料などが集まり、犠牲になった隊員ら数十人の名簿も作成した。


 2016年8月に公開された澤田正道監督『人間爆弾「桜花」特攻を命じた兵士の遺言』を観ているので、人間爆弾「桜花」のことは知っていた。
 出撃隊員の選出にあたった元海軍大尉林富士夫さん。多くの仲間たちを死へと送り出す中、自身は出撃することなく終戦を迎えた林冨士夫さんとの対話で描いたドキュメンタリー作品である。

 住友金属工業が整備した桜花公園と慰霊碑のことも知っていて、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で鹿島を訪れる予定にしていた。
 ところが、2020年からのコロナ渦で出かけられなくなってから、心身の急激な衰えで行くことができないまま今日に至る。

 同じ特攻兵器である人間魚雷「回天」の記念館がある山口県の徳山、現在は周南市だったかにある瀬戸内海の大津島には戦没者慰霊のための行脚で訪れているし、集団自決で知られる沖縄の渡嘉敷島を訪れた時、特攻兵器「震洋」の部隊が配備されていたことをガイドの米田英明さんに教えてもらった。
 
 あれから80年経ち、人間を特攻兵器にするような国が戦争に勝たなくてよかったとほっとしている。
 誰が考えたにせよ、人間を特攻兵器するのはその筋の世界の鉄砲玉みたいなもので、どう考えても理解に苦しむ。
 テロリストの親玉が自らは安全地帯にいて、部下に爆弾を抱えて死ぬように命じることと同じ構図でもある。

 特攻関係者はテロリストと一緒にするな。と怒り心頭かもしれない。それでも、命令した者は多く生き残っている事実がある。

 ウクライナに侵略したロシアは北朝鮮に金を払って軍隊を戦地に派兵してもらっている。
 北朝鮮に生まれたかわいそうな民は自分たちの命を金一族に金で買われたも同然である。

 北朝鮮の若者たちこそ、革命のために立ち上がらなければ、一生金一族の奴隷で終わってしまう。

 陸海軍の軍人たちが支配していた時代、人間を兵器にすることが平気で行われていた。
 その意味で、当時の日本と現在の北朝鮮は全く変わらない。
 こんな国は滅びて当然のことである。

 郡司文夫さんが人間爆弾「桜花」の慰霊祭を行っているのは、父親が戦死しているからだそうな。
 戦争の抑止力になるのはこういう人がいてくれるからこそである。