来る年、2025年は戦後80年、昭和の始まりから100年目となる。未だ戦火の絶えない世界の中で、1941年12月の開戦を三つの視点から考える。
日本が戦争へと向かい、引き返せなかったのは何故か。平和を望みつつも、日米開戦を決意した昭和天皇。戦争とプロパガンダ、戦前の国民が抱いていた感情について上中下、12月5日から三日間の読売が伝えている。
当時の時代状況、周辺地域の情勢について、駒澤大学の加藤聖文教授(57)に聞いている内容が語り継ぐ戦争の立場から興味深かったので書いておく。
日独伊三国同盟を結ぶ1940年9月、日本は米国との戦争を慎重に避けようとしていた。
陸軍は国民政府の蒋介石を屈服させ、日中戦争を終わらせることに懸命だった。同年9月、仏印に進駐し、英米などによる国民政府支援の物資輸送路・援蔣ルートの遮断を試み、仏印南部に進めると、米国が石油などの対日全面禁輸を断行してきた。
石油のストックは、平時で2年分、戦時で1年半分とされていたことから、産油地帯のオランダ領インドネシアんを占領するしかなくなった。
石油を止められると軍艦が動かせなくなる海軍は強硬になっていく。
31年9月の満州事変、32年1月の上海事変、そして、37年7月の盧溝橋事件で陸軍と海軍は戦果を挙げようと組織の利益追求でしのぎを削った。
日米交渉が41年4月から行われるが、日本の動きに米国は中国とインドネシアからの撤兵などを求めるハルノートを突き付けた。
83年前の12月1日、御前会議出たい米英蘭開戦ノ件が決定された。
国の存亡をかけるなら、どう生き残るかという感覚がなく、後の特攻作戦のように誤った美意識の罠にはまり、どう滅びるかを優先してしまったことに結果的になってしまった。
関連して特別面に「日本が『開戦』へと傾斜していく背景と論理」「成功体験 引き返せず」「好景気 満州事変で『うまみ』」という見出しで対米英開戦について詳しく説明している。
語り継ぐ戦争、犯罪被害者支援という二つを中心に「自由のために」をテーマに書き続けてきた。
戦後80年を前に、思うこととして、相手があるにもかかわらず、自分を正当化するというか、相手の出方を研究することもせず、自分たちの都合のよいような希望的観測の許に陸海軍の軍人たちが戦争に突入していった。
このことは犯罪の加害者によくある行動で、このような加害者は大概捕まってしまうことになる例が多い。
事前にいくらシュミレーションしても予期せぬことは起きるもので、犯行後、一度は運よく逃れても、二度、三度繰り返せば捕まることになる。
東京台東区で親を殺害した息子夫婦がその典型である。
犯罪を重ねたことで、過去の犯行が露見することになったのである。
中国との戦争で蒋介石の国民党軍の抵抗に手を焼いているうちに、次第に戦線を拡大せざるをえなくなり、米国から石油を止められるや、米国の国力を無視して、戦争に突入してしまった。
そもそも、国力からして勝てる見込みなどなかったのである。
というのが日米開戦に突入していく陸軍や海軍の主導権争い、利益追求の末に起きてしまった戦争の経緯である。
誰も指摘しないが、国土と資源などから人口が多すぎると判断していた一部の人間は人減らしとして、満蒙開拓団を移民として満洲に送り込んだのではないか。
特攻作戦でも、若者の命が顧みられることがなかったことも一部、人間の命を重要視しない人がいたからではないのか。
闇バイトとして、強盗の手先にされてしまう愚か者は、楽してカネが儲から仕事などあるわけがないと考えることを市内から、騙されてしまう。
自分にとって、都合のよいように考えることは愚かな考え方だ。