2024年12月17日

被団協68年 反核訴え 座り込み500回 「ノーモア」傷さらし叫ぶ

 被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」は10日、ノーベル平和賞の授賞式に臨む。被爆者たちは、傷ついた心身をさらして被爆体験を証言し、核兵器の非人道性を世界に訴えてきた。厳しい国際情勢の中で「核のタブー」の確立に貢献したと評価された被団協の68年間の歩みを、その礎を築いた被爆者らの生涯を通じて振り返る。と12月10日の読売が特別版で伝えている。

 悔恨の念が、信念の学者を突き動かした。広島大の倫理学者で、被団協の初代代表委員を務めた森滝 市郎さん(1994年に92歳で死去)は戦時中、広島高等師範学校(現・広島大)の教授として動員学徒を率い、被爆当日も学生を引率中だった。自身は窓ガラスの破片で右目を失明し、学生らも被爆した。

 「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」
 1982年6月、米ニューヨークの国連本部で開かれた第2回国連軍縮特別総会。被団協の代表委員だった山口仙二さん(2013年に82歳で死去)が、ケロイドの残る自身の写真を掲げ訴えた言葉は被爆者運動のスローガンとして受け継がれてきた。
 14歳の時、長崎市の爆心地から1・1キロで 壕を掘る作業中に被爆した。顔や胸に大やけどを負い、植皮手術で入退院を繰り返した。「二度と被爆者を出さない」。その一心で、同年代の被爆者らと立ち上がった。


 被団協がノーベル平和賞を受賞することになったこと。メンバーがその授賞式に臨み、その後、帰国されたニュースが流れている中に、被団協の東京の役員の中に、胎内被曝者である知人の姿をみつけた。
 彼は、自分より4歳年長で、語り継ぐ戦争で家族を連れて2度目のヒロシマを訪れたとき、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で彼の家族と彼の名前を同行した家族がみつけてくれた。
 このことで、語り継ぐ戦争として、ささやかではあるが、若い世代に原爆のことを語り継ぐことができたと自負している。
 「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」の山口仙二さんが亡くなった2013年は語り継ぐ戦争で毎日、発信していたから訃報を取り上げた記憶がある。
 しかし、被団協の初代代表委員を務めた森滝市郎さんのことは詳しいことは知らなかった。

 被団協がノーベル平和賞を授与されたことは反核運動、平和運動に貢献したことだから、喜ばしいことである。
 しかし、自分が得た教訓は、こういう運動は皆で力を合わせてやるから、大きな力になるということ。
 若い頃、原水禁だったかの集会に参加したことがあったが、当時、主催者が社会党系と日本共産党系に分かれていたと記憶するが、主導権争いみたいなことをやっている場合ではないだろうと思ったものである。

 もう一つ大事なこととして、わが家には教育者だった父親が1950年代頃のアサヒグラフだったか原爆の写真集持っていて、子どもの頃、本箱から取り出して見ていた。
 お陰で、子どもながらに被爆者の惨状を知っていた。
 自分の子どもが小学生の時、この本を担任に頼まれて貸したことがあるし、件の知人にも貸したことがある。

 つまり、語り継ぐ戦争、語り継ぐ被爆者という点で、親が子どもに伝える、あるいは書物で残すことをしていれば、次世代がいつの間にか、反核に対する意識をもてるようになるのではないかということ。

 被団協がノーベル平和賞を授与されたことで、忘れられかけていた被爆者に注目が集まったことは確かである。