太平洋戦争の激戦地・パラオのペリリュー島で、米軍が日本兵の遺体を埋めた集団埋葬地が確認され、厚生労働省は8日から現地で本格的な遺骨収集に乗り出す。米側の資料に1086人を埋葬したとの記録があり、1000人規模の埋葬地からの遺骨収集は極めて異例だ。元兵士の遺族らは、遺骨の帰還に期待を寄せる。と12月3日の読売(波多江一郎、大井雅之記者)が伝えている。
同島の集団埋葬地を巡っては、駐留していた水戸歩兵第二連隊の戦友や遺族でつくる慰霊会が2013年、米カリフォルニア州にある「米海軍設営隊博物館」に保管されていた地図を入手し、同省に提供。その後の同省の調査で、1086人を埋葬したとする米軍資料などが見つかった。
これらの情報に基づき、同省から事業者として指定された「日本戦没者遺骨収集推進協会」(東京)が調査を始め、2023年7月から現地で10か所以上を試掘。同10月、島中央部の密林で、30メートル四方を等間隔で囲うように鉄くいが打たれている一帯を見つけた。
日本兵約1万人が戦死した同島では、いまだ約2400柱が眠る。
太平洋戦争で名だたる激戦地ペリリュー島。44年9月15日以降米軍が4万人以上の兵力で上陸し、1万人の日本軍は洞窟を拠点に抵抗するも組織的な戦闘は11月24日に終わった。日本軍の生存者はわずか約450人だと紙面に解説がある。
ペリリュー島の戦没者を追悼する慰霊祭が11月23日、水戸市の茨城県護国神社で営まれ、遺族ら約50人が参列したと同じ紙面で伝えていた。
自民党や保守派、右寄りの勢力がA級戦犯が合祀されている靖国神社への参拝に拘っているが、彼らが遺骨収集に熱心かといえば、全くそうはみえない。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で全国の慰霊碑を周ってきたが、千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑にお参りしたとき、保守派、右寄りの勢力どころか、お参りする人影はまばらだった。
保守派、右寄りの勢力は戦没した人たちのことを口先では英霊だとか言っていても、本当に敬っているなら、遺骨収集を手伝う。A級戦犯とは関係ない全国の慰霊碑に折々お参りできるはずだ。
遺骨収集を手伝えないなら、資金提供するなりできることをやればいい。
というわけで、太平洋戦争の激戦地ペリリュー島で上陸して来た4万人以上の米軍に対峙し、約1万人の日本兵が洞窟に立て籠もり、抵抗するも生存者がわずか約450人だというのだから、1000人もの将兵の遺骨が葬られている場所が特定できたなら、遺骨収集するのは当然のことである。
2024年も師走。年の瀬を迎えるとどうしたって行く年を振り返ってみたりする。
15年戦争、大東亜戦争、アジア太平洋戦争と立場によって、呼び名も異なる先の大戦であるが、300万人以上もの人々が犠牲となったとされている戦争で激戦地と呼ばれていた地域は数あれど、ペリリュー島は有数の激戦地だったことで知られる。
2019年8月4日の読売によれば、ノンフィクション作家早坂隆『ペリリュー島玉砕』を取り上げ、その苛烈な日米の死闘を紹介している。
パラオの守備は第十四師団があたることになり、ペリリュー島の守備は歩兵第二連隊が中心となった。この部隊を率いた守備隊長が中川州男陸軍大佐だった。
中川が徹底した三つの戦術
第一に、島をまるごと要塞化した。島の鍾乳洞などを利用して壕と壕とを直角を交えた通路で縦横に結ぶ壕「地下複郭陣地」を造り上げた。
第二に、住民を他の島に強制疎開させた。
第三に、「日本万歳」を叫んで敵陣に突っ込む突撃を禁じた。
中川はサイパン島での玉砕を教訓にし、硫黄島の栗林忠道中将も、中川の戦術を教訓にしたとされている。
米軍が上陸してきた44年9月15日、サイパンはすでに玉砕していたことから、持久戦を命じられた中川は抵抗を続け、日本軍の戦死者は1万22人、負傷者は446人にのぼり、11月24日、中川は自決。最後まで生き抜いたのはわずか34人。彼らが投降したのは1947(昭和22)年のことだった。
飢餓地獄で苦しみながらも、玉砕せず、持久戦に持ち込めと命令する側は安全地帯にいて、自決、すなわち玉砕を許さないとはいいながら、勝てる見込みのない戦さだから、兵士たちは気の毒この上ない。
これが戦争の実態で、生き抜いた34人は運も味方したかもしれないが、その生命力に感嘆する。