2024年11月07日

絶望の作戦 特攻 開始から80年

 太平洋戦争で劣勢となった1944年10月、日本軍は爆弾を抱いた航空機で敵艦に体当たりをする「特別攻撃」(特攻)を始めた。
 戦局が悪化し、追いつめられる中で始めた絶望の作戦は常態化し、「全軍特攻」に突き進んでいく。 
 あれから80年、第1陣で出撃した搭乗員の親族は「後に続いた搭乗員の一人ひとりに母親がいた。その悲しみを思えば、残酷な戦争は繰り返してはいけない」と語る。と11月3日の読売(川畑仁志記者)が伝えている。

 「絶望の作戦 20歳の便り」「特攻開始80年」「家族思い 自画像など100通」「甥『命』の尊さ語り継ぐ」という見出しで紹介されているのは京都府舞鶴市の「明教寺」で、同寺で育った特攻隊員谷暢夫さんの100通以上の手紙が保管されていることである。
 
 暢夫さんが予科練生になったのは1942年4月、同年6月のミッドウェー海戦で空母4隻を撃沈させられ、44年6月のマリアナ沖海戦では米空母の攻撃に向かった航空隊が壊滅。追い詰められた海軍の首脳が選択したのが特攻だった。
 44年10月20日、レイテ沖海戦で「神風特別攻撃隊」が編成され、その5日後、暢夫さんが所属する「敷島隊」の零戦5機がマニラ郊外のマバラカット基地を飛び立つ。レイテ沖で米空母「セント・ロー」に突入して撃沈する。

 戦後、明教寺では暢夫さんの命日にあたる10月25日に法要を営む。


 暢夫さんの母親一枝さんは2000年に96歳で亡くなった。長寿を保った理由を「のんちゃんの命をもらって生きているから」と話していたそうな。
 わが息子を特攻隊員として20歳で亡くした母親の哀しみは想像を超えるであろう。
 命令した側は生き残って、若者たちが戦争で死ぬように命じられたことは何としても教訓にしなければならない。

 自民党など保守派の国会議員が靖国神社にお参りはするが、千鳥ヶ淵の国立戦没者墓苑にお参りする様子が伝えられてこない。
 A級戦犯が合祀されている靖国神社にばかり行きたがる国会議員のことをみていると、何か魂胆がありそうだ。

 特攻隊が組織され、敵空母に突入して搭乗員が亡くなったとき、当時の新聞は「空の壮士」「五勇士の偉勲」とあがめられたということで、いつの時代もプロパガンダというのか、自分たちに都合のよいことを権力者たちは叫んでいる。

 2022年2月24日未明、ロシアがウクライナに侵略を開始したが、ロシア、ウクライナ共に特攻攻撃なるものはない。
 どうも、特攻攻撃なる自殺攻撃は日本だけのものらしい。

 特攻開始から80年。
 平和の有難みを特攻隊員の皆さんのお陰だと感謝申し上げる。