日本軍は捕虜に過酷な生活を強いた。資料は終戦直後に焼却。「ふたをされた負の歴史」を掘り起こした女性に聞く【つたえる 終戦79年】というタイトルでWEBの47NEWSが興味深いことを伝えてくれたので書いておく。
太平洋戦争中、日本軍は捕虜にした連合国軍の兵士らを日本国内に連行した。彼らは各地の収容所で強制的に働かされ、その数は約3万6千人に上るとされる。過酷な労働や栄養不足が原因で多くの死者が出たが、実態はあまり知られていなかった。
捕虜はどこで、どんな扱いを受けていたのか。そんな疑問に向き合い、仲間と一緒に20年以上にわたって調査を続けた女性がいる。元捕虜たちの声に耳を傾け、記録をまとめた事典を刊行した笹本妙子さんに話を聞いた。(聞き手 共同通信=福島聡)ということで、とかく、戦争の被害者の面ばかりが強調されてきた日本であるが、その加害者としての側面も忘れてはならない。
捕虜収容所は国内に約130カ所もあった。その他に日本に住む連合国籍の民間人が、スパイ活動防止などを理由に約30カ所の抑留所に収容されていた。この事実を「捕虜収容所・民間人抑留所事典」(すいれん舎)にまとめて2023年末に刊行した。
出発点は横浜市の自宅近くにある英連邦戦死者墓地。墓碑を見ると、死亡したのは1942年から45年にかけてだった。なぜ英国やオーストラリアの兵士の墓がここにあるのか、と疑問を持ったこと。
2002年に「POW(Prisoner 0f War=戦争捕虜)研究会」をつくって全国的な調査を始めた。
日本側は関係資料を終戦直後に焼却している。戦犯裁判で連合国に追及される恐れがあるので「ふたをしたい歴史」だったのであろう。米国の国立公文書館などで資料を探し、施設があった地元で証言や資料を集めた。メンバーで手分けをして米国、英国、オーストラリア、オランダなどを訪ね、元捕虜らの話も聞いた。
捕虜虐待の問題は今も世界で起きている。戦争の一断面として知らなければならないことではないか。特に若い世代に読んでほしいとのこと。
新潟県上越市の平和記念公園にある「直江津捕虜収容所」で死亡したオーストラリア兵捕虜の碑、と捕虜虐待の罪で死刑になった8人の日本人所員の碑。離れて立つ2つの慰霊碑の間には収容所跡地を示す碑(中央)も建てられていると写真が添付されていた。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始める前、新潟の上越に行ったことがあったが、春日山城址跡の上り口まで行った。しかし、平和記念公園の慰霊碑のことは全く知らなかったし、当時はまだ戦争のことに詳しくなかった。
横浜の保土ヶ谷にある英連邦戦死者墓地のことは知っていたが、GIベイビーを巡る問題の方に関心があったので根岸にある外人墓地には行き、GIベイビーの墓とされている場所でお参りしている。
笹本妙子さんに英連邦捕虜が葬られている保土谷の外人墓地のことを思い出させてもらったので、語り継ぐ戦争の立場から一度訪ねてみたい。
捕虜虐待に関しては、731石井部隊が中国人捕虜をマルタと呼んで人体実験したことがよく知られている。
九州大学医学部における、米兵捕虜の生体解剖実験や、空襲空爆の責任を問い米兵を処刑したことの責任を問われた岡田資陸軍中将などの事件については書いてきた。
語り継ぐ戦争だから、戦争の被害者としての面ばかり強調するつもりなどなく、加害者としての面もきちんと取り上げてきた。
笹本妙子さんとその仲間の人たちが、戦争の捕虜に向き合ってこられたことに敬意を表し、エールをおくりたい。